新緑ノスタルジア

生きていくのがVERY楽しい

読んだ本(4月)

lettucekunchansan.hatenablog.com

1~3月はここから。

ジャンル混在、ネタバレ配慮ゼロ、読んだ順です

 

星野源『よみがえる変態』

くも膜下出血で倒れる前後の3年間を記したエッセイで、闘病中の出来事や気持ちにも仔細に触れてるのに悲壮感がほとんど感じられないのが独特。入院中の出来事を動画に撮って記録して公開しようとしていたのも知らなかったので驚いた。最低のどん底に見える状況でも自分に、世界に希望を持とうとしてると思った。ただ、文庫版後書き(2019年)として「ただ、この作品の頃は、まだ希望をしっかりと持っていたと思います。(中略)今、僕の目の前には、いつも絶望があります。(中略)どんなに頑張っても、この世の中は馬鹿なままだし、最悪になっていく一方だよ。例えば昔の自分にそう言っても、きっちり『いや、そんなことはない』と言うでしょう。そこが彼のとてもいいところだなと思います。」と書いてあって、10年代ってそういう時代だったよなと思ってしまった。星野源でもそういう気持ちになるんだな。淡々と自分と向き合って面白いことをやり続けるしかないってのもわかるし。

真面目な哲学もくだらない下ネタも垣根なく並べられているのが割と自分の理想だった。

 

岩井勇気『僕の人生には事件が起きない』

「事件」のない、傍から見ればなんてことのない日常を展開して読者に咀嚼させる。文章としてのエッセイはきっと廃れないと思った。珪藻土の話、薄い親戚付き合いのキツさ、めっちゃわかるwwwwww

 

塙宣之言い訳 関東芸人はなぜM-1で勝てないのか』

 

自虐ネタは「その人にしかできない」分「ネタ」ではなく「フリートーク」という考えは自分にはなくて面白かった。

「競馬における『距離適正』があるように、漫才師にも『時間適正』というものがあります。」

 

「漫才にクラシック三冠のように、2000メートルの皐月賞、2400メートルの日本ダービー、3000メートルの菊花賞と、時間ごとの大会があったとしたら、三冠王候補は断トツで中川家でしょうね。」

 

この辺の「時間適正」の概念も目から鱗だった。

「誰しも黒い部分を持っていて、そこを解放してあげることもお笑いの役割のうちの一つだと思っているのですが、嫌な気分にはなって欲しくない。」

 

これはすごくわかる。2019年時点、トム・ブラウンとマヂラブに(同じしっちゃかめっちゃかな漫才でも)正反対の評価を下していて、2020年以降はどういう評価軸で見てるのかも気になる。ブログで毎日短い漫才を書いて投稿するのを続けてると聞いて見に行ったけど1〜2往復の会話でこんなに面白いものを作れるとは!ダウンタウンVS爆笑問題の時事ネタ対決はいつか見てみたい。

漫才を見る視点が増える一冊だった。

 

雪舟えま『凍土二人行黒スープ付き』

う〜〜〜ん…………SFチックな世界設定は好きだし人外×人間も好きなんだけどもっと根本的なこの人の思想的な部分が気に入らないぜ〜〜〜〜………

『シールの素晴らしいアイデア』のシールはやふぞうっぽいけど最終的にサバと恋仲に近くなるところに違和感があった。そうじゃないだろ?あとこの人の描く二人組(恋愛かそうでないか問わず)って片方が「他者に必要とされること、存在していいと許してもらえること」でもう片方に寄りかかってる事が多いんだよな。それ自体が悪いわけじゃないけどそういう行為が孕んでる有害性みたいなものを無視しているような感じもあってモヤつく(有害性を理解した上でそれでも選ぶんだ!となる作品は好き)。『緑と盾』『恋シタイヨウ系』は割と好きだったのはいろんな関係性に視点を変えずに緑・盾(パラレルワールドも含む)の極めて個人的なところから動かなかったからかもしれない。いろんなコンビでやってるオムニバスだから「そういう思想が根底にあって書いてる」ってのに気付きやすくて、そこがキツかったのかも。緑と盾シリーズ以外はもういいかな……

 

絲山秋子『夢も見ずに眠った。』

 

日本各地を巡りながら自分の生き方、考え方にも思いを馳せるふたりの物語。何歳になっても人は脅かされることなく安全に暮らせる「楽園」を探してしまうのが現実だし、その中で現れる「異物」としての他者にどう向き合うかに人柄が出るんだと思う。鷹揚さで時に周囲を和ませ、苛立たせる高之の方が自分に似ていると思ったが、沙和子のように過剰に周りの期待や要望に沿ってしまいながらも満たされない気持ちを抱えている気持ちもわかる。でも結局みんな自分のためにしか生きられないんじゃないかな。

「すべてはばからしく、同時にいとおしいと思われるだけの価値を持っていた。矮小な存在でありながら無限と繋がっているのだった。かれは巨大な織物の一本の糸を構成する微細な繊維にすぎなかったが、その織物は単色でありながら虹のようにあらゆる色を含み、軽くしなやかなのに織り目は誰にも解きほぐすことができないほど複雑なのだった。」

日記やエッセイにも言えるけど、特に大それた事件の起きないありふれた日々を表現するのには文字媒体が一番向いてるんじゃなかろうか。「僕の人生には事件が起きない」でも思ったけど。

 

松田青子『男の子になりたかった女の子になりたかった女の子』

「ゼリーのエース(feat.「細雪」&「台所太平記」)」「向かい合わせの二つの部屋」が特に好き。「ゼリーのエース」は世間が求める「大人」にみんながみんななる必要はないんだなと思える。成熟と馴致の違い。「向かい合わせの二つの部屋」は、自分も長く団地に住んでいるので生活の点ではリアルではあったんだけど、実際は隣は何をする人ぞ……感がもっと強いので、リアリティと虚構の入り混じりが絶妙で面白かった。誰かと同居することって「生活の全てを構成員一人の意見だけで決定できなくなる」ことでもあるもんな、とも思った。それが心地良い人もいれば息苦しい人もいるけど、互いに息苦しくならないボーダーラインって一定のものじゃないから難しい。

「『物語』」。人を特定の枠に押し込める「物語」はどこにでも潜んでいて、この話では男女の社会的役割、ポジションに関する「物語」に抵抗する人々の話だったからそうだそうだと読めたけれど、もしこれが国籍、民族、性的・恋愛的指向、年齢、学歴、経験、病気・障害などほかの「物語」だったとしたら……と思うと自分も「物語」を内面化してしまって捉われから脱出できていないのでは?と感じた。色眼鏡を補正するためにはこうやって一気に揺さぶってぶち壊してくる存在が必要。

https://co-coco.jp/series/study/ariokawauchi_masayukikinoto/

この記事も思い出す。

「誰のものでもない帽子」や「斧語り」など、新型コロナウイルス流行後の世界を扱った小説は初めて読んだので、今後この世界がどのように描かれるかは見ておきたいと思う。

 

村田沙耶香『消滅世界』

なんで人が生殖にこだわるかわからん側の人間(子供は好き)なので後半にかけて(雨音が感じる違和感とは別の意味で)どんどん薄気味悪くなっていった……。

世界設定⬇️

☆人工授精で妊娠する「さらに高等な動物になった」

☆人工子宮の研究が進んでいる(男性や生理の終わった女性も妊娠できる可能性を追求している)

☆恋愛はアニメなどの「キャラ」にするもの(ヒトと一生恋愛しない人も珍しくない)

☆性欲処理は原則マスターベーション、まれにセックスもするが年々減っている

☆夫婦関係を結んでも双方別の恋人を作って良いとされている

☆実験都市ではコミュニティ内の大人全員が「おかあさん」としてみんなが生まれた子供の面倒を見て愛情を注ぐ(「家族」システムの消滅)(可愛がるだけ可愛がって責任が有耶無耶になっている)

「ヒトと恋をして繁殖する必要がなくなったから、性欲処理のためにたくさんのキャラクターが生み出されてるのよ。私たちの欲望を処理するための消耗品じゃない。」

ここ、二次元のオタクとしては自分がキャラに向けてる尊敬、友愛、感謝、いろいろな気持ちを全部「恋愛」「性愛」にすり替えられた感じがして窮屈さにゾワっとしちゃった。

「ヒトとの恋愛は、うっかりするとすぐにマニュアルじみてしまう。(中略)ヒトではないものとの恋は、工夫することから始まる。」ここで数多の二次元ガチ恋・リアコオタクたちの走馬灯が流れていったのは内緒な!

この世界ってアニメや漫画や小説など「キャラ」作りに携わる人が実質性産業みたいな扱いになってるんですかね。

水人が言ってたことは色々私も思うことがある。

「たまに思うんだけど、性欲って、俺らの身体の中に本当にあるのかな」

「テレビや漫画からいつの間にか性欲や恋愛感情の『種』を体内に植え付けられて、それが身体の中で育ってるだけじゃないのかなーって思うこと、あるよ」

これすっごい気になっちゃうんだよな。ここで言う『種』に触れてきても恋愛感情や性欲を抱かない人もいる分、余計に何なんだ!?ってなる。

実験都市では完全に大人がみんな「子供ちゃん」を育てる「おかあさん」になってて、次世代の子供たちを産み育てるためだけに存在してるような感じがした。反出生主義ではないけど、「命を繋ぐ」って言葉にはどれほどの価値があるんだろう?って疑問には思ってしまう。あと恋愛も家族制度もなくなった世界でも子供を育てる役目の名称が「おかあさん」なの、キツいな……

たしかボクらの時代でもぐらも「子供は自分の子だけじゃなくて社会の子なんだから」みたいなことを言ってたな。それはわかるんだけど、「自分の子」要素を完全に排除するとこんなにゾッとするもんなのか……

とにかく読み進むにつれて気味の悪さを感じて、でも読む手が止まらない一冊だった。最後雨音と実験都市ではおそらく初めてのセックスをした「子供ちゃん」はどうなるんだろう。

今は「逆に法制度としての『結婚』がなくなったらこの世界どうなるんだろう?」ってことが疑問として湧いてきてる。もしもボックスが欲しい。

 

加藤幹郎荒木飛呂彦論』

漫画を構成する「ストーリー」「絵(美術)」の両方の表象に触れながら独自性を指摘する一冊。バトルの主力が波紋からスタンドに変わった3部以降でも「DIOとジョナサンの結合によってスタンド能力が開花、それがジョースター家に広がる」=波紋、各部でよく出てくる水の表現=波紋、生と死のサイクルの広がり=波紋と、「波紋」的な表象が終わらないことによって、各部で独立したストーリーを展開しながらも繋がりを保っている説に関しては目から鱗だった。

ジョジョジョースター家の広く長い血縁関係を主軸にした物語でありながらも血縁神話、家族神話的な悪いところを感じないのは、親子関係の多様性による(父のDIOをほとんど知らないジョルノが血縁や権威に依存しない共同体のメンバーになる、ディアボロが娘のトリッシュを殺そうとする、ジョセフが不倫して生まれた子供が仗助、承太郎と徐倫は長い間会っていないなど)によるものだと思っていたけれど、「それゆえ、本作は『善人』たる主人公たちの単純な血縁関係による物語になることはありません。親から子へ、孫から曾孫へといたる各パートの主人公たちは、血統的遺伝(「波紋/幽波紋」)能力にもとづく『正義』の人生を強調することはありません。むしろ、各パートにおける特異な『最大最悪の敵』との葛藤をつうじて、それぞれ独自の自律的精神性の展開にいたるのです。」と言われて、スッと納得が行った。仗助や徐倫の成長が特にわかりやすい。

岸辺露伴という人物の特殊なポジション(主人公仗助の敵でも味方でもない、「動かない」での怪異に干渉しても倒そうとはしないことによって善悪をねじ曲げる)あたりは結構身に覚えがあるんだけど、「岸辺」に「露」が「伴う」のは(↑の)波紋的表象から見ると当然のこと、とまで書かれてるのはかなり強引にも思えて笑っちゃった。でもあり得なくはなさそうなのがまた……

まだ6部途中で6部DIOへの理解が追いついてないんだけど、ここを知ったらもっとジョジョが面白くなりそうな感じはした。

「二重人格(≠光と影、表と裏、善と悪)のドッピオ(=ディアボロ)も殺人衝動を抑えられない吉良吉影もある意味人格障害」(意訳)ではあるんだけど、それを「可哀想」と読者に思わせないのも独自性強いところだと思う。善悪二元論を捻じ曲げてはいるけど同情ベースに持っていかない。

「権威的制度にもとづく集団戦争ではない、個人間の世界概念にもとづく非善悪二元論的な葛藤友愛物語となるのです。」まあこれがいいまとめだよね。ジョジョのオタクと平成ライダーのオタクって(同心円ではないとはいえ)だいぶベン図書くと被ってる印象があるんだけどこうやって言語化されるとやっぱり近いところにある気がする。

ちらっと出てきた「ストーン・フリーはハーミットパープルとスタープラチナのいいとこ取り説」も盲点だった。茨⇄糸の伸縮性と強烈なパンチ。

あとジョジョに直接関係ない短編集はノーマークだったから読みたいな。許斐先生の「COOL」はテニプリに繋がるエッセンスをたどりたくて読んだことだし。

昨今は「公式の言うことが絶対」って水戸黄門の印籠みたいに使う風潮が強まってきてるからこの手の本みたいな視点大事ですね。読者の自由な発想や分析は(それが的外れだったとしても、こじつけに見えたとしても)封じ込められるものであってはいけないと思った。

 

柚木麻子『BUTTER』

 

連続殺人犯の梶井は自分自身が世間に振り回されずに奔放に楽しみながらも、あくまで「女の使命」として男を楽しませるエンターテイナーに徹し、それを怠る女性は徹底的に卑下する……という一見矛盾を孕んだ女性なんだけど、それは結局与えられたルールからはみ出ること、ギブアンドテイクの関係を破ってしまうのが怖いからなんだ……という落とし込み方は観察眼の冴え渡り方に感動した。ふつうここまで辿り着けないよ。梶井を理解ししていく過程で魅力に心惹かれ→友達になりかける→と思いきや最後の最後に裏切られ、破滅しかける→自分を守り、大切にする手段をもうわかっていたので自分自身を救うことができた っていう流れにも血が通っているように思える。自分のため、誰かのために時間をかけて料理を振る舞うことは確かに愛情をかけることと言えるかもしれないけれど、手間ひまかけて作った料理そのものが愛情というわけではないんだよな。愛情を伝える手段のうちの一つとは言えるかもしれないけれど、絶対的なものではないし、料理は時間をかけて作り出された結果に過ぎない。それを見誤ると、性別関係なく「家庭的」とか「手作りこそ愛」っていう幻想に縛られる。

セルフネグレクトという言葉が普及しつつあるけど、自分を粗末にすること、他者は自分のことを大切に思っていないと思うことが他者に対する暴力っていうのは、まあそうだよな。この世界に一人でも自分を大切に思ってる人がいると思えるかで明暗が変わることって案外よくあることなのかも。 (これは空気階段『anna』とかもそう)

この本では長い時間をかけた人間関係の修復がそこかしこで出てくる。「『いつか』を信じることは、弱いことでもおろかなことでも逃げでもないのに。」という言葉が象徴的で、つい瞬間瞬間の言葉の応酬、感情のギヴアンドテイクに気を取られがちになった時支えてくれるような気がした。

誰かに見た目、スペック、人柄、なんでもジャッジされてるように感じてしまうからこそ自分の中で一本芯が通った規範とか、肯定してあげる気持ちとかが育てられたらそれが最高なんだけど、なかなか環境によるところもあるな……里佳は少しずつ自分をそういう風に育てていって、最終的にはその気持ちを育てられる側の人にもなったけど。

そして作中に出てくる料理がどれもこれも美味しそう。塩バターラーメン、カトルカール、ルウではなくソースから手作りのシチュー……

本筋にあんまり関係ないんだけどここが一番共感できた。

「関わりたくない相手を無意識のうちに欲情させていたと知れば怖気が走り、自己嫌悪に打ちのめされる。でも、自分の意志でこれぞと狙い定めた相手に働きかけたものであれば、それは少しも里佳の存在をおとしめない。」

 

ところでスクリームの恵ってのはズッキがモデルなのだろうか。卒業時期も作中とほぼ一致するし参加したラストシングルがディスコファンクってのも泡沫?

 

kemio『ウチら棺桶まで永遠のランウェイ』

何事も経験、好きなことは継続してナンボだと思った。スルスル読めるし「飲める本」って前書きって言ってるだけあった。ラッキーばっかりに思える奴もなんかムカつくやつも悩み苦しみが違うだけでなんかと戦ってるのは同じって思えたらもっと肩の力抜いて生きられるのかもね。

「性格なんて気圧でも変わるし『性格がいい』って概念、いらなくない?そんなの自分の意識でなんとかできる範囲」

 

がどっかで探してた言葉過ぎた。

 

恩田陸『麦の海に沈む果実』

明るくない学生の話って本当に面白い!!𝑪𝑨𝑵𝑴𝑨𝑲𝑬 𝑻𝑶𝑲𝒀𝑶!!

中高時代のあの独特な閉塞感ってなんだったんだろうなと思ったら、お前、そういうことだったのかーー!!!と終盤で一気に畳み掛けてくる。事実と嘘の境界線があやふやになっていく感じがゾクゾクした。校長が二重人格かもしれんと思ってたけど全然そんなことはなかった。ホワイトスネイクで夢を見せられながらドロドロに溶かされてる時の承太郎と徐倫みたいな……あの学校には理瀬や麗子も含めて他にも校長の子供がいるってことでいいんですかね。

 

品田遊『名称未設定ファイル』

オモコロのヲタクなのにそういえば読んでない!と思って。インターネットやコンピュータにまつわる短編集。1段組と2段組、縦書きと横書きが入り混じる構成や袋とじページで「本」を読む楽しさが倍増した。フィクションでも現実と同じような構造が見られる話(「猫を持ち上げるな」)、この後どうなったのか明示せず想像力が掻き立てられる話(「この商品を買っている人が買っている商品を買っている人は」「最後の1日」)、「あるある」と「ないない」の行き来(「カステラ」「みちるちゃんの呪い」「亀ヶ谷典久の動向を見守るスレpart2836」「有名人」)全体を通してのインターネットやコンピュータと生身の人間の身体性の葛藤……

現実には存在しないシステムでも社会構造や人間の思考回路は現実とほぼ同じで、システムを通して人間が見えてくるSFが好きなのでそういう話が読めて嬉しい。

一番好きなのは「天才小説家・北見山修介の秘密」。2段オチの話、好き。小説だと共著、分業が考えにくいのなんでなんだろうね。

 

村田沙耶香『丸の内魔法少女ラクリーナ』

短編集なぶん「消滅世界」よりライトにサクッと読めるけど、本質は全く変わってない!時代に伴って人が「変容」していくことは「アップデート」「より良くなること」だと言い切れるのか?「多様性」「平等」「やさしさ」を重視し過ぎるあまり全体主義に陥り、かえって個性や自由が消えてしまう世界が「無性教室」「変容」で特に描かれていたと思う。「無性教室」はここから何か始まりそうな終わり方だったけど(「消滅世界」もどちらかといえばまだ何か希望がありそうなエンディング)「変容」には読者が予想しているであろう希望が見えてこない終わり方だったことに2010年代中盤〜後半で考え方が大きく変わってしまったことを感じる……。初恋の焼却は自分にも心当たりがあるので「秘密の花園」が一番好き。表題作「丸の内魔法少女ラクリーナ」はバッタヤミーが脳裏をよぎる。

 

壁井ユカコ『サマーサイダー』(再)

地方都市の閉塞感、行き場のないモヤモヤを抱えた屈折した少年(大切な人のためにはがむしゃらになる)と鋭さと鈍感さを併せ持つ思春期の少女、日常の中に紛れ込む異常、「蝉」のグロテスクさや三浦が倉田に触れるときの艶かしさ……久々に読んだけど好きな要素だらけだな。学生3人にせよ千比呂にせよ、いろんな感情が遮断されて理性だけが残ってるのが狂気なんじゃないかと思う。綿矢りさの「ひらいて」とかもそうなんだけどあんまり明るくない学生の話が好き。

 

中島岳士『思いがけず利他』

「利他」とは「何か不可抗力に動かされるようについやってしまう」もの、「偶然性を持つ」もの、「受け手が『利他』と感じてはじめて作用する」もの、それゆえに「時間が経って作用することもある」ものという話。(先代)立川談志は落語に「業」の肯定(=人間の不完全性を認める)の要素があると論じたけどこれは空気階段のラジオやコント見てても思うこと。

浄土真宗ヒンディー語特有の言い回し、土井善晴と民芸など色々な知識が出てくるが逐一丁寧な説明が入っててわかりやすい。

「自力に溺れている者は、他力(仏力)に開かれません。自分の力を過信し、自分を善人だと思っている人間は、『自力』によって何でもできると思いがちです。一方、『自力』の限界を見つめ、自分がどうしようもない人間だと自覚する人間には、自己に対する反省的契機が存在します。この契機こそが、他力の瞬間です。」

ヒンディー語特有の表現の「言葉が私にやって来て留まっている」っていうの、面白い。言葉は自分で生み出したものではなくて先祖が作ってきた文化、もっと突き詰めると神から人間に授けられたものだかららしい。そこが土井善晴先生の「『おいしさ』はやって来るものであり、『ご褒美』である」とも繋げられる。

利他と利己の切り離せない関係は、自分がボランティアに誘われた時にいつも思っていたことなので論じられててよかった。「行ってしまう気持ち」なんてのが自分にどれだけあるんだろうか。

「利他」に相反する概念として自己責任論がある。それを考えるにあたって、「自分という存在の偶然性」を考えるというのは大事だと思った。「もしかしたら自分が相手の立場で、自分がここにいなかったかもしれない」。「何かボタンのかけ違いがあれば自分はここにいないかもしれない」を突き詰めると結局自分の父、母、祖父、祖母……と血脈を辿ることにもなる。おじーちゃんおじーちゃんおじーちゃんおじーちゃんおじーちゃんおじーちゃんひいじいちゃん🎶(四天王/MAPA)

偶然性や運の軽視が自分への過信につながるというか、この辺は「自分で身の回りのことを何でもコントロールすべき」っていう理性崇拝への批判でもあるね。

偶然と運命はよくセットで語られるからその辺はどう思ってるんだろう?と思ったら「偶然性に伴う驚きを飼い慣らすようになる(何度も「偶然」の出来事に遭遇する)と運命と感じ、自分に与えられたものとして引き受ける」ようになるらしい。ほえー……

そうした偶然を呼び込むには自力を尽くして限界を自覚するのが重要ということで、「自力を尽くす」ができたとしても「限界を自覚する」の難しくないですか?

 

ケイン樹里安、上原健太郎『ふれる社会学

これは一年の時に読んでおきたかった!「起源、ルーツだけを見るのではなくて今に至るまでにどのような過程、ルートがあったのかを見る」が社会学に共通する考え方ってのは今はそりゃそうだって思えるけど社会学に足突っ込む前にこの前提があるかないかで飲み込みの速さがかなり違うと思う。あと唐突に(非西洋のルーツをもつ「ハーフ」で活躍してる人の代表として)莉佳子の名前が挙がっててビビったけど、アンジ「ェ」ルムになっとる!!!!!正誤表があるならそこも訂正しといてくれよ!!!!

公式サイトでも補足説明やおまけが豊富で嬉しい。個人的には「日中ハーフ」の事例で見られるような「民族、性別、障害など自分の意思でなかなか変えられないアイデンティティ要素に基づく自虐」が一番気になった。

ミュージカル「新テニスの王子様 The Second Stage」感想

※大楽の配信しか見てないオタクなので抜け、漏れ多数あると思いますご容赦ください

※うっすら原作のW杯準決勝ドイツ戦までのネタバレを含みます

 

オープニング

冒頭が越前家から始まったので、「リョーガからリョーマへの想い」へ強く注目する意味合いなのか?とも思ったが割とその辺は原作通りだった。新テニは群像劇だけどあくまで主人公はリョーマということの確認なのかもしれない。

「チェンジ!チェンジ!チェンジ!」で始まるオープニングテーマを聴くと続投組(特に3rdからの平松來馬君)のパフォーマンスの安定感が増していることに気付く。高橋怜也くんはこんなフェイクまで歌えるようになってるのか!と驚いた。

コーチの歌で「目もいい 頭もいい 顔も体もエクセレント イケメンでごめんね」とか言われて出た!!久々のトンチキ歌詞だ!!って謎の感動が来た。最初に来るのが視力の良さなんだ……。

持って生まれた才能とたゆまぬ努力、両方揃って初めて「Genius」になる、これがテニプリ世界のルールなんですよね。才能に関しては多かれ少なかれ皆何かしら持っているという描き方をしているので、そこからどのように努力するかに比重が寄ってる感じはありますが。

やっぱり一軍下位戦もダイジェストでもいいからやってほしかった……ミュの世界でもあの子たちが生きてることを知りたかった……。

ROUND1 跡部・仁王VS毛利・越知

ここから何度か出てくる南次郎の「漫画じゃあるまいし」という台詞。かなり判断に迷うしTwitterでも賛否両論だった記憶があるけどいまだにどういう意図でこの台詞入れたのか掴みきれてない……まあこういうメタなことを言うとしたら中学生・高校生を一歩引いたところから見ている南次郎かコーチしかいないというのは、まあ、わかる……。でも貴方も「漫画じゃあるまいし」って言われるようなテニスしてたじゃないですか……って言いたくもなる……。

サーブ音が普通の音だけではなく越知のマッハサーブ、仁王が手塚にイリュージョンして打ったサーブとバリエーション豊富なのもこの試合のイメージを強めていたと思う。

どこかで見かけた「原則客席に近い方が有利で、実力が拮抗しているときはネット自体が回って演者も動き回る」を今更ながら頭に入れたので今まで以上に楽しく見れた。

跡部「いつまでも醜態晒してられっかよ!!」こういう姿勢ってともすれば焦りからの自滅になりかねないんだろうけど、そうならないのは彼に「俺は跡部だ 俺はキングだ」っていう一本芯の通った矜持があるからだろうと思う。りょやべは前回の新テニミュにも出ていたので「高橋怜也くんが演じる跡部景吾」が跡部VS入江戦で得たものも考えるシーンだった。

仁王の中で手塚像が無印のVS不二の時以上に固まっていることを感じる。手塚ってもうテニスの世界では偶像なんですよね。仁王だけじゃなくて不二、跡部、真田などなど手塚を強く意識するキャラは沢山いるけれど、それぞれが自分の中に虚像としての手塚を抱えていると思う。

「手塚の心」はそれがよく表れていたと思う。「痛みがなんだ 俺は我慢した」ってまるで手塚が我慢していたかのような言い方だけど、多分あの時の手塚って「我慢しなければ」という気持ちで動いてるわけではないと思うんだよな。青学を勝たせるためにはそれが当然のことだと思って行動してる感じ。イリュージョンした手塚≠本来の手塚国光ってところは、仁王のイリュージョンは相手の心理を読み取る観察力+感情の想像力がベースなのが出てるんだろう。あと仁王はそんなにメンタルが屈強な方ではないので、自分を鼓舞する気持ちもあった気がする。

そして満身創痍になる跡部を庇って試合に介入する樺地。このシーンは樺地跡部を想って(たとえ跡部が望まないことでも)やったことに意味があるんだよな……。

仁王(手塚)も樺地も失って……ここで出てくる跡部の「ワンマンパワー」という言葉が切実だった。それでも「自分がキングであることへの自負」が何度でも彼を奮い立たせる。そこで見せたシンクロでの「すぐにできちゃうなんて俺たち天才じゃん」、このイキリ方が中学生で笑顔になった……😁でもこれ二人ともギリ言わなさそうなのがミュ特有のズレだとも思う。

イリュージョン含めて仁王のテニスって「実現不可能なものを可能にする」意味合いが強い(乾の夢の中だけに現れたメテオドライブの実現、カミュ&デュークダブルスの実現など……)と思うのであり得ないはずのシンクロができてしまうのも納得。

ここで跡部・仁王が勝って「しまう」こと、越知・毛利ペアは100%の実力ではなかったことは、強さを見せながらも負けた側の格を落とさないテニプリらしい演出と再確認した。

ROUND2 石田VSデューク

原作通りあっさり終了。原作ではインパクトある大ゴマで印象を残していったけど、ミュでは本当にあっさり印象薄く終わってしまったので、(流石にデュークホームランを生身の役者でやるのはほぼ確実に不可能とはいえ)舞台表現の限界みたいなものも感じてしまった。

ROUND3 木手・丸井VS遠野・君島

原作でもGenius10編ではこの試合が一番好きなのでどうなるか結構期待していた試合。

急にキミ様ショー始まるかと思ってビビった。アニメでもひと昔前の歌謡曲とかディスコソングっぽい歌が多いけどミュでもそういうイメージなんですね……

この1軍VS2軍は「テニスには体力や技巧だけではなく相手の意図を探ることや安定した精神力も強く求められる」ところを押し出してると思ってるんだけど、その究極系がこの試合だと思った。この試合は2VS2(通常のダブルスとしてスタート。通常のダブルスって何?)→3VS1(木手→ブン太の裏切り)→2VS1VS1(さらに裏切る木手、ワンダーキャッスルの完成、遠野の孤立)という展開で進む。それをライト運びで明快に表現しているのがとても楽しく、ここに関しては期待を超えてきたと感じた。

遠野・君島がダブルスを組んでいながら絶対にデュエットでは歌わないのもちゃんとこの時点での「表向きは一緒のパートナーだが(主に君島が一方的に嫌っているので)全然仲良くはないし信頼関係もあってないようなもの」っていう二人の関係を表してて嬉しかった。(正直これでデュエットしてたら解釈違いだった)

木手と亜久津の暴力性は種類が違うよなとも思う。手段としての暴力と結果としての暴力だと思ってる。

そして遠野がめちゃくちゃいい!下瞼を赤くして地雷メイクっぽくしてるのも原作にはないし今までのテニミュでもほぼ前例のない表現だと思うけど、遠野の漫画的表現を生身の人間でおこすのにぴったりの2.5的表現だと思った。小声で処刑はサクッとーサクッとーって歌ってるのおもろい。こいつならやりかねん。現実に処刑がなんだってデカい声で言いまくってヨロレイヒー!!って叫んでる人がいたらドン引きするけど、なぜか不快感がなかった。でも一人で勝手にハイになっていくのに反比例してベンチで引いていってる中学生・高校生たちは正しい反応だった。この遠野と君島でフランス戦での和解まで見たい。

今回のブン太は原作より「無邪気な子供」っぽいと思った。確かに立海の中にいると勝つためにゲームメイクや技巧にもこだわりを見せるギラついた側面が強調されるけど、そこを離れたブン太が「無邪気な子供」かと言うとあんまりそうでもない気がする……(後輩やジローに対するお兄ちゃんムーブ、同級生に対しての陽キャ中学生ムーブのイメージが強い)。ワンダーキャッスルの歌も割とポップだったし。たしかにそのギリギリの状況でも漂う軽さ、お茶目さもブン太の魅力ではあるけれども!パフォーマンス面でもまだまだ伸びしろがあると思うのでこのブン太が関東立海に出たときどんな感じになるか見たいと思った。

今回テニミュボーイズでもジローがいなかったからここで言及するのもアレなんだけど生身の人間で見ると木手はブン太に対してなかなかにえげつないことやってることを再確認してしまったので、ジローはこれ見て何を思ったんだ……しばらく木手のこと警戒してない……?みたいに思ってしまった。(ジロー推し)

ROUND4 遠山VS鬼

鬼先輩VS金ちゃん戦はこっちまで笑顔になっちゃうよな!天衣無縫はほんとに楽しそうにやるから良い。ミュが持つ演者の身体性がめちゃくちゃ生かされてるのが天衣無縫だと思う。

越知+毛利+君島でなんか肩組んでるしベンチの千石可愛い〜〜木手が仁王に遊ばれたり小さくダンスしたりしてるし師範がブンブン腕上げてるのも好き。そんな中一人だけ幸村が苦い顔してたの、まあ確かに無印のリョーマ戦踏まえて描くならそうできなくもないけど原作では「あのボウヤ いい顔してるね……」と(内心思うところはあるのだが)表向きはつらそうな表情は見せずに言っているところなので、どういう意図があっての改変なのか気になった。

金ちゃんの天衣無縫は負けても苦しくても、何があっても何がなくてもテニスは楽しい!の天衣無縫なのよね、鬼先輩のは守るべき存在がいるからこそ心から楽しもうと思える天衣無縫。

ROUND4と同時進行の出来事、回想

平等院VS鬼(二年前の回想)

兵庫出身の平等院に岡山出身の鬼先輩(そして京都出身の入江、種ヶ島)がいるこの代、西日本テニス界相当盛り上がるんだろうなと思った。

この歌唱力めっちゃ高い人たちが全く違うメロディを歌って一瞬だけ重なり合うの、これを見るため聴くために生きてたんだなってなる。(関東氷帝の一騎打ちもそう)

・越前兄弟&亜久津

リョーガと亜久津のやり取りがダンスバトルっぽくなってたところが良い演出だった。二人の「天才」感が出てる。でもここで出てるリョーガの「たかがテニス」って言葉、最新の展開から自分の能力に後ろめたさを感じてるのでは……?と深読みしてる自分にはしんどかった。

ROUND5 真田・亜久津VS大曲・種ヶ島

なんで巌流島?とずっと思っていたんですが、色々な人の感想を読んでやっと「大曲の二刀流+種ヶ島の『無』で宮本武蔵をイメージしている」ことをようやく理解できました。

今回の真田、どうしても亜久津や幸村と体格を比べてちょっと威厳が足りないのでは……?って思ってしまったけど、「黒色のオーラ」聴いてると別にそんなことないなと思った。真田の本来の性質はこの試合で見せた(亜久津が引き出してくれた)闘争心剥き出しなところにあると思ってるので、その側面を見せるという点でかなりよかった。関東立海リョーマと鍔迫り合いしたらどうなるんだろう。

そして話題の𝒏𝒐𝒕𝒉𝒊𝒏𝒈……。アニメ準拠のキャラソンは明るくアップテンポな曲ばかりなのでこんな音数も少なくて静かな曲が来るとは思わなかった。技巧と役に入る力両方合わせた歌唱力で音の穏やかさ、音数の少なさをねじ伏せてきてる。アップテンポな曲とかロングトーンを強く歌い上げるタイプの曲だとパワーで押し切ることもできるんだけど(だからこそテニミュにはそういう曲が多いのかも)、真逆を行くスタイルだった。これは照明もすごくよくて(暗い中白いライトで照らしてる、今まであまり見なかった演出だと思う)、一瞬時間が止まったのかと錯覚するようだった。

そしてこの途中に挟まれるのが亜久津と千石の回想。この時の千石は亜久津のことをちゃんと見てて、ただの運試しのふりしてテニスへの未練を残している亜久津が無意識のうちに求めているであろう条件を出してると思ってるんだけど、それをきっちり舞台上で表現しきった千石をテニミュボーイズにしておくの勿体ない……4thにも出てくれ……と思いながら見ていた。実際は違う人に決まったけど。

結果だけ見ると中学生がボロ負けしてて、改めて高校生の強さを見せつけられることになるこの試合だけど、大曲先輩の真田や亜久津に対する態度を見るとなんか後腐れなくなるんですよね。

余談ですけどこの試合中ベンチで仁王、ブン太がウサギやったりギャルピースしたりしてるの、マジでいつもの中学生のノリって感じでしたね。

ROUND5と同時進行の回想、出来事

・徳川、鬼先輩、入江の回想(またの名を医務室コント)

泰江奏多は「ありがとー💞」といい「こういうの嫌い?」といいめっちゃあざといことがわかった。演者がこういう感じで遊び心を出せるのはミュージカルならではの旨味ですよね。特に入江はダブルキャストだから両者の違いを楽しむこともできるし。

・越前兄弟

回想を一曲の中に入れ込んだの、こういう演出を見るときっちりミュージカルしてるな!と思う。(4thくんならちび越前兄弟の回想だけ見せてから今の二人が現れてバラードを歌い始める……とかやりそう)

ROUND6 徳川VS平等院

「俺は強くなり過ぎた この確信は揺らがない!」と言うほどに強さだけを磨き続けてきた徳川と、自分の精神の強さをコントロールしてあえて不利な状況に追い込みさらに強くなろうとする平等院ってのが見えてると、やっぱり平等院の方がワンランク上なんだなと思う。

未だに具体的になんなのか説明できる自信がない「阿修羅の神道」を鬼と入江の歌唱力で「なんか すごい つよい」と思わせてしまうあたり、2.5だろうがミュージカルは歌が上手いことが何より大事という当たり前のことを思い出した。

原作ではオタクの間で「スタンド攻撃喰らってる」とも言われてるあのシーンをどうやって表現するんだ……!?と思っていたが、(私の予想は「テニミュボーイズを海賊のイメージとして登場させる」)まさかのG10メンバーが仮面をかぶり海賊になるとは!!原作のドイツ戦での平等院VSボルクの表現を踏まえるとここは激アツだった!!

一方ブラックホールは徳川のプライドと挑戦する覚悟を感じつつも入江や鬼が後押ししていることで平等院陣営との対比も感じた。

そして、平等院の言う「世界は広ぇぞ!!」は新テニそのものを表す言葉でもあると思う。高校生に出会って世界を広げる中学生、海外選手に出会って世界を広げる日本代表……。

エンディング

First Stageの時はモヤってたディスタンスとようやく和解できました。

テニプリの世界では流行り病など存在しないのでテニミュですらそんなこと言っちゃうんですか……ってメソメソしてたんですが、感染状況が比較的落ち着いた状態だったからなのか今回気にせず見れました。前回はあった私服登場コーナーがなかったのはちょっと残念でしたが……

 

レボライで!!また会おう!!!!!

黒魔女さんが通る!!出戻り新規オタクの記録(6年生篇1~10巻)

みんな~!児童書の出戻りオタクになったことはあるかな!?

 

お姉さんはあるよ!!!!!!!!!!!!!!!!!

 

こんばんは。大学生の春休みは無駄に時間だけは長い癖にお金は足りないのです。そんな私が何をするかというと図書館に行くんですよ。そこで出会ってしまったわけです。「初恋の人と数年ぶりに再会してしまった」みたいなノリですよね。そんなわけで黒魔女さんが通る!!出戻り新規オタクの記録を残しておこうと思います。

 

※CP名やCP萌え発言が乱発します

はじめに

寡聞にして6年生に進級していること、大形くん絡みの問題に一応の解決の糸口が見えそうなこと、麻倉と東海寺の祖父が活躍するスピンオフが出ていること、何も知らなかった。あの頃ページをめくった時のワクワク感を思い出しつつ、当時とは違う視点の楽しみ方(おかげさまでクソオタクに成長してしまったので、カプオタの視点になってしまう)も味わえたらと思う。このシリーズがまだまだ現役小学生に愛されていることそのものに感動してしまった。15年以上続いているシリーズなので、そりゃあ小学生も大学生になるわ。もしかしてもう「親子で黒魔女さんを楽しむ」世代なんてのもいたりするんだろうか。

1-2巻

相変わらず石崎先生のファンサービス力や親父ギャグやメタ発言や痛快な起承転結が爆発していて「久しぶりに帰ってきた地元」のような安心感がある。チョコがギュービッドの影響受けて日常会話でも親父ギャグが出そうになってるところでニコ!!ってなった。君ほんとに「魔力を捨てて普通の女の子に戻」れるのか??麻倉VS東海寺も健在だし、他のクラスメイトも私が読んでた時と全然変わってなくてめちゃくちゃ安心した。けど大形くんだいぶ積極的に助け舟出すようになってない!?しかしまさかのまどマギのもじりネタ出てきた上に「放映はもう何年も前」って言われてて泣いちゃった。児童文学の子供がわかるか怪しいパロディネタに気付いてニヤつく日が来るなんて……。ちなみに桃花ちゃんが好きです。あと一路舞ちゃんにはもっと肩の力を抜いてもらいたい、姉になって愚痴も弱音も全部聞いてあげたい(キャラの年齢を追い抜いて初めて気付くこと)

あと、児童文学特有の「基本1話完結で、横の繋がりをいろいろいじりながら少しずつ縦軸を進めていく」方式、「いつか読むのを卒業する」本来の読者をターゲットにするにあたってめちゃくちゃ理にかなってるんだなと思う。

3-4巻

百合ちゃんのぶりっ子嫌味、舞ちゃんが凛音に対しどうでも良さそうな態度を取ってる……この辺のリアルな小学生の性格の悪さが黒魔女さん(特に初期)って感じがした。メグがバリバリに自己肯定感高くて自己顕示欲強いだけのかなりいい子に思えてくるよね。

個人的に鈴木薫さんの「ウンチク披露」舞台装置ではない生身の人間としての気持ちの動きがわかる回で嬉しかった。重くんを一番近くで見てるから誰より心配してるんだよな。重くんが彼女連れてきた時に誰よりも動揺して「恋とは、〇〇で〇〇なものである……」とか恋愛関係のウンチクを呟くことしかできないしそんな時に限って「ねえちゃん、すごい!」がないもんだから余計に調子狂う二次創作が、読みたいよ〜〜〜!!!!!!(未来捏造100000%)けど男女双子が好きなの確実に鏡音リン・レンの二次創作がルーツって気付いて地味にダメージ食らった。 

疑似的に麻チョコ+東チョコのバージンロードを実現さすな!!!!桃花ちゃんが人間界の同級生にベタ惚れの恋愛体質なの意外だな……子供っぽい見た目だけど一応魔界年齢的には割といい年でしょ?(王立魔女学校に入れるのは17歳で3年間在籍なので)魔界の人型種族と人間界の人間の年齢はイコールじゃないってこと?魔界は時間の流れが違うからか(解決)改めて思うこととして、基本女子は「男子ってバカだなあ」の視線で、男子VS女子で定期的に意見が割れるのも小学生って感じがする。中学ぐらいで緩やかに変わっていって、高校でそのノリが(表向き)完全に鎮圧されるイメージ。ずっと公立共学、高校は進学校しか見てないので他のことは知らん。

5巻

終始チョコちゃんからギュービッド様に向けられるBIG LOVEだった……絶対離れたくないからこそ自分の過失にもちゃんと目を向けて問題解決への強い意志を見せるの、これが愛じゃなければ何と呼ぶのか……(突然の米津玄師召喚はNG)
ちょっと抜粋するだけでも

「でも、ギュービッドが、やさしいのはたしかです、はい。」

「あたし、競争とか好きじゃないし、一番でもビリでも、ぜんぜん気にしないタイプだけど、ギュービッドさまの悪口だけはゆるせませんっ。」

「それより、ギュービッドといっしょにいることのほうが、ずっと、ずっと、ずっと、だいじなことなんだよ!」

これだけある……もともとチョコが絆されやすい性格ってのもあるけど、ここまで来ると(というか5年ハロウィン〜クリスマスあたりでもだいぶもうアレだったが)完全に自分の意思を貫いてるよね。
あと5年生編最初の魔界行き長編が林間学校→シンデレラのパロディ、6年生編最初の長編が修学旅行→白雪姫のパロディでセルフパロディになってるのが熱い。
魔界行った後の大形が王子ポジションなのも変わらないけどその意味がだいぶ変わってるよね。シンデレラの方で魔界の妃にするって言ってたのは駒として利用する側面が大きかったと思うけど、多分6年生になってからは「チョコを心の底から信頼してる」「チョコが恋愛的に好き」って気持ちも結構入ってる気がする。「それに、魔力はぼくのほうが上だねぇ。だから、守ってあげたいねぇ。」辺りも、魔界支配のための言葉とはいえあながち嘘でもないんじゃないか?あっても「嘘はついてないけど本当のことも言ってない」ぐらいのラインでは?
個人的には5年生編よりもガンガン縦軸が動くのは嬉しい。卒業で完結させるゴールに向けて逆算してるんだろうか……?
あとちょっとしたセリフで引っかかったのは「でも、そんなに幸運な黒鳥さんが、なぜ黒魔女修行をさせられてるの?」かな。色々見る限り人間で黒魔女(黒魔法使い)の素質があるのって人を憎んだり恨んだりする気持ちの強い子(大形もその素質を早い段階で見抜かれてるし、このセリフを言った幸野さんもそういう傾向がある)っぽいけど、チョコは深い友達付き合いや流行はどうでもいい陰キャ寄りのタイプだけど決して情がないわけじゃないし、家族やクラスメイトにも恵まれてるし、チョコから誰かを恨むようなこともないし……ティカからの遺伝で魔力継承してるのはわかるけど、なんで実の子であるチョコの父親も開花しなかった魔力がチョコで開花したのかはたしかに引っかかるな……。
そんで後書き!!後書きでサラッと重大な情報を出すな!!!舞ちゃん→エロエース!?!?!?!?!?!?後書きにそういうこと書くのやめてもらっていいですか!?!?!?!?!?!?!?(有識者曰く無印からフラグ立ってたらしいです。確認します)
これでチョコ関係以外で明らかに恋愛フラグ立ってるのは
百合ちゃん→ショウくん
舞ちゃん→エロエース
灯子→獅子村
雷香→与那国
になるのかな。どうする?出雲くん→舞ちゃんの矢印が発生してて出雲くんが舞ちゃんがエロエースに向ける気持ちに気付く時が来たら。あんなのじゃなくて自分にしろよって思うけど本当に自分のことを見てたことがあったか?って1人で考えまくる回。いやでもエロエースがめちゃくちゃ動揺する回も見たいな。ショウくんみたいなのが好きかと思ってたからまさか舞ちゃんが自分を好きになるはずないだろうって思ってすれ違いまくるとか。
個人的に与那国×雷香はかなりいいカップルになる気がするんですけどね。6年生になってから恋愛フラグ立ちまくってるので誰が最初にくっつくかダービーをするしかない。

6巻

6巻はいつも通りの短編3話と思いきや予想外の不穏な展開を匂わせる話ばかりで、無印のハロウィン編直前の空気も彷彿とさせる。
大形のモノローグでスタートだったし本格的に大形問題に蹴りをつけに行く感じですね。何度も改心フラグ立ててはへし折ってるので今度こそきっちり更生してくれそうな匂いがしてよかった

「ただし、黒鳥さんだけはべつ。だって、低級だけど、黒魔女の黒鳥さんは、ぼくの気持ちをわかってくれたから。たまには、ぼくのことをしかったりもしたけれど、でも、いつだって、やさしかった。」

これ読む限り大形からチョコへの感情は恋心というより子供から保護者に向ける感情とかの方が近いような気がしてきた。母性(?)を求めているような感じ……
更生後の暗御留燃阿さんの贖罪に触れる内容でマッコト嬉しい。無印13巻で唐突に更生して大友の間では賛否両論らしいので再読しないと……。でもよりにもよって暗御留燃阿さん本人から大形を「魔物」呼びするのはいくらなんでもキツ過ぎた。自分の責任を感じてるとはいえ一番言っちゃいけない人だろ。
そして麻倉家のお誘いでウミダー!(トウカイテイオー
豪太郎さんと迦楼羅さん、今も毎年お盆に別荘の隠し部屋で会ってんの!?!?!?!?先に迦楼羅編読んでるオタクとしてはヒイヒイ言ってる。しかも講談組は一代で終わらせる……?(現実的に考えるとヤクザとおもちゃ会社の社長なら断然後者の方が孫のためにはなるだろうけども)孫たちはそれ知ってんのか……???
「おまえを助けるのは、あたしだ!なんのために、インストラクター黒魔女がいると思ってんだよ!」やっぱりギューチョコはそうこなくっちゃ🎶ギューチョコの強い絆で結ばれた師弟関係(疑似姉妹関係でもある)は無印ハロウィン以降黒魔女さんを黒魔女さんたらしめる不可欠の要素だよね。人を不幸にさせる黒魔法なのにそれで「これを使ってやり取りした2人はだんだんお互いを好きになっていく」効果のある「好感メモ蝶ふせん」を作るのがチョコらしい。
そして無から生えてきた大形のおじいさん大形京太郎さん。黒魔女の世界では「霊なんていない」ことになってるけどじゃあこいつは何者?魔界関係者?いまだ大形の出自が謎だけど京太郎周りの情報が全部事実ならこの作品、祖父母の代から何か継承した(継承しようとしている)子供多くない……??ジョナサンとジョセフ??そんで「京と黒鳥さんは、ながーいつきあいになるかもしれんでな。」って何?本格的に京チョコ√で固めにきた??

7巻

マリアのカンフーもおばあちゃんから伝わったもので、やっぱり黒魔女さんって祖父母→孫への継承多いですね??ってなった。 
ギュービッド様の「悪魔の証明」もこれ前巻のラストで魔界行き長編フラグか?と思ったら割とあっさり目に人間界でチョコ・桃花で工夫を凝らして解決してしまったので、チョコたちの成長もそうなんだけど作品自体の積み重ねた時間みたいなものを感じてしまった。同じような展開ばっかりするわけにもいかないもんな…… 
しかし東海寺にもちゃんと霊力があることがきっちり証明されてしまったので、ますます黒魔法と陰陽道の関係性や違いが気になってきた。黒魔法は悪魔の力を借りてて魔界の月が源流で、陰陽道(白魔法?)は神仏の力を借りるという解釈でいいんだろうか。 
一級黒魔女を目指すとなると魔界そのものの歴史やシステムについても学ぶことになるんだな。作中でもまだまだ明かされてない部分が多いと思うのでそこが知れるのがありがたい。王立魔女学校は三級相当で入学して一級か初段相当で卒業でしたっけ。 
「小島くんのオオカミ役を受けとめられるのは、あたしぐらいだと思うの。」←!?!?!?!?!?!?エロエース←舞ちゃんのフラグガンガン立ててきますね。しかももうクラスのほとんどが気付いてる。チョコが誰ともくっつかず大形も麻倉も東海寺もチョコなしで各々の人生を歩むことになってもこの二人はくっつくだろうという謎の自信がある。 
学芸会のアイデア出しに関してのリアクションで、「でも、だれひとり、学級会をやめようとせず。こういう『クラス一丸となった』ふんいき、すばらしいと思う人もいるのでしょうが、あたしは正直、つかれます。はい……。」こうなるの初期チョコっぽい。なんだかんだクラスメイトへの思い入れみたいなのは初期より増してるとはいえ「独りが好き」のベースは変わってない。 

8巻

無印で桃花ちゃんが使っていたワンニャンプリターをチョコが使えるようになってるの感慨深い。メタな読み方にはなるけど「前章の要素をなぞりながら新展開を出す」のが好き(ちなみに新テニはこれのオンパレード)なので嬉しい。 
しかし死霊だの魔女だのに付け込まれてエロエースも災難だな……一生懸命英語も勉強したのに…… 
「おまえとあたしは、心と心でつながってるんだからな。」←安定のギューチョコ。 
「最強の能力でなんとかする」展開より「ひらめきや工夫で乗り切る」が好きだからチョコのこういうひらめきが活かされるの好きだな。同じ理由で二級昇格の時に作ってた好感メモ蝶ふせんも好き。
魔女学校物語はまだ読んでないからマガズキンさんへの理解を深めたい 
未来予想図回、珍しく松岡先生がまともなことを言ってるぞ!! 
とうとう黒魔女さんでも中学受験が話題に出るようになったか。東京が舞台だしかなり私立校も身近なんだろうね(田舎すぎて全員地元の中学に進んだ人) 
でもこんな軽いノリで友達受験に誘うもんなんですか?6年生から勉強し始めても間に合わないみたいなことも聞くし、どっちかが落ちた時どうすんだ
各々が夢を語る中でミスコン/ミスターコン廃止問題にもちょっと触れてるな。初版2019年か。 

「ねえちゃんも、ミスコンで優勝できるぞ!」 
重くんのひとことに薫さん、お顔が真っ赤。うるわしい姉弟愛です!

↑こういう男女双子はいくらあってもいいからね 中学生あたりで関係性が一旦離れるのも好(ハオ)この二人は同じ中学に行くつもりなのだろうか……?? 
ショウくんモデル志望でジュノンボーイ受けるつもりなのか。仮面ライダーにも出てくれ 
ギュービッド様だいぶまともに漢字書けるようになったんだな……影響受けてるのはチョコだけじゃないってワケ!? 
「そりゃそうだよぉ。チョコとあたしは幼稚園のときからのくされ縁だもん。チョコがこまっていることぐらい、手にとるようにわかるよぉ。」←メグチョコの波動を感じる 
大形「純粋な小学生には、大学生は大人に見えるだろうけど、大人からすれば、大学生なんて、ヒヨコみたいなもんなんだよ。」 
大学生俺様「それはそう。」 
京太郎のツテで呪リア学園でのバイトをしてるみたいだけどだとしたらやっぱり京太郎は魔界の人??魔界の血をひいてる孫ってそこまでチョコと同じなのか?? 
魔界のミスコンの景品が人間の子供(弟子にするもよし、メイドとしてこき使ってもよし)って魔界の倫理観というか種族間の立ち位置の違いってどうなってんの??流石に児童文学だしこの辺を深く掘り下げるわけにはいかなさそう?? 
ボウリングの起源初めて知った。石崎先生こういう一見無関係に見えるところからも知識引っ張ってくるのがすごい 

「黒鳥さんは、もっと自信をもたなくちゃだめだよ。黒鳥さん、そのままでも、かわいいんだし。」 
「かわいいだけじゃない。黒鳥さんは、自分で思っているよりずっと、いろいろできる人なんだ。少なくとも、ぼくはそう信じてる。だから黒鳥さんも自分を信じなきゃ。」 

ホア……ここで出てくる「プチメイク魔法」の話させてくれ。プチメイク魔法は存在しない魔法だけどあのとき確かに大形はチョコのことを思って優しい嘘をついたんだろうし、それによってチョコは勇気付けられた。このくだり、短いけど確実に魔法って言葉の本質をついてる気がするんですよね。誰かを想って発した言葉が誰かの心に作用する。大形が改心したのも今度こそマジっぽいな。 
後書きコーナー、いつも「小説家のうちへ遊びにいこう」なんだよな

9巻

無印のハロウィン編が出た頃(2007)と違ってハロウィンが大人にも子供にもポピュラーなイベントになったことがちゃんと反映されてる。 
「だって、映画に出てくる吸血鬼はイケメンって決まってるからね。」ショウくんの自信清々しい…… 
石崎先生、小ネタで地獄少女出しがち 
東海寺も麻倉もちゃんと「うんこで笑う小学生」なんだな…… 
当麻明菜さん、CV能登麻美子感すごない? 
ギュービッド様の裁縫うまい設定久々に出てきたわね 
ハロウィンでいつもと違うゴスロリ着るのも無印のセルフパロディ!あの衣装も好きだけど今回のも可愛い 
「ところが、面接のとき、大形は、おねえちゃんのことばかり話したらしくって。」あっハイ…… 
「ふふふ、ほんわかして、あったかくって、気持ちいい。やっぱり、あたしのインストラクター黒魔女さんは、ギュービッドさま以外、考えられないよ。」うん???この状態で本当に「魔力を捨てて普通の女の子に戻」れますか?? 
チョコ+ギュービッド+桃花+大形で小学生らしい遊びしてるのもなんか嬉しいな…… 

「なになに?『閻魔あいになーれ』。あ、じゃあ、これは……。」 

エロエース、まじめなお顔で、舞ちゃんのもとへ。 

そうしたら、舞ちゃん、ほっぺをぼうっと赤くしちゃって。 

「ありがとう、小島くん。おぼえていてくれたのね。わたし、ぜったいにすてきな地獄少女になるわ。」 

↑エロエースも満更でもない感じなの!?!? 
保健室のみな実先生ってもしかして田中みな実が元ネタ?? 
大形は「6年1組のメンバーと楽しい思い出を作りたい」けどそこに魔力を持ち込もうとしてゴタゴタが起きるのは揺るがないんだよな……

10巻

「ブラック大形」って自分で言うのちょっと草 
「そんなことだから、授業中にまで、大形のこと、チラ見し続けて、インチキ霊能者とヤクザの組長の孫を、キレさせちまうんだよ。」←え?? 
!?!?エロエースと舞ちゃんでカラオケデートしてたんですか!?!?!?!?、?!? 
与那国くんボカロも使えるのか……たしかに声変わりはつらいけれども…… 
チョコの星座石が黒曜石で魔界での意味が「まわりに不幸をもたらす」かあ……前巻の聖ウリエル学園祭見学回とか6年生編だけでも思い当たる節はあるけど……なんだかんだ解決してきたじゃんね 
でも誕生石はトルコ石で「他人の不幸を助ける」か……周りを不幸にしてしまっても助けるだけの力と優しさが備わってるってことね 
ダイヤモンドには「戦いのとき大事なものを守る力」かあ……クレイジーダイヤモンド…… 
良子ちゃんからさらっと「仮面ライダーのおもちゃ、うちの会社で作ってるんだから。」って言ったけどバンダイじゃねーか!そんな規模だったんだ…… 
麻倉と東海寺はやっぱり対大形で共同戦線張ってたのね…… 
「黒鳥さん自身が黒曜石なんだ。生まれつき土星の魔法石の魔力を秘めているんだよ。」うん?? 
「だって、口ではどんなにこわいことをいっていても、あたしを見つめるひとみだけは、いつだってきれいにすんでいたから。」 
まだ大形の意図が掴めない!! 
泡多田志井子さんの隣の席に、なりたいよ〜❗️(野田クリスタル

 

みんなも黒魔女さんが通る!!を、読もう!!

 

 

四半期オタク報告書(202201~03)

ざっくり見たもの・読んだものに関してピックアップして書きます。今年から個人的に日記を書いているので、その中からダイジェストで引っ張り出しているものが大半です。そのため文章の繋がりがごちゃついていたりしますのでご容赦ください。あとところどころ口が悪い。

それにしても1月から3月はあっという間ですね。

見たもの(映像コンテンツ)

ジョジョの奇妙な冒険(アニメ1~6部)

厳密には年末の休みに入る少し前から見始めてた。日記を読み返すと年明けの時点で4部に突入していたっぽい。まず見るまでに至った経緯を説明すると

・ドラマ版「岸辺露伴は動かない」を2020年から楽しんで観ていた(テレビに出てたら見るぐらいにはうっすら高橋一生が好きなので)

テニプリの推し・芥川慈郎のテニス以外の特技は「ジョジョのスタンドを全部言える」

・ZOCに新メンバー・吉良乃ジョナちゃん加入

・友人(現・恋人)が熱烈なジョジョのオタク

・タイムラインに流れてきたアニメ予告の徐倫に一目惚れ

以上複数の流れがあった。

これこそ「人間賛歌」と心で理解しましたね……とりあえず暫定推しは
1部→SPW
2部→シーザー
3部→ポルナレフ(もちろん5部ナレフも好き)
4部→康一くん
5部→トリッシュナランチャは孫)

6部→徐倫、F・F

ドラマ「恋せぬふたり」

見たうえでのポジティブな感想は概ねここで書いたんですが↓

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それに加えて最終話まで見たうえでの感想としては、親子や兄弟姉妹は離れてようが家族のままでい続けられるし、家族(仮)も離れてようが家族(仮)のままい続けてもいいんだな……と思えた。血縁や生殖を前提とした異性でないなら「同居」しか家族の証はないのかと思ってたけどそれも思い込みだったのだ。

放送終了後賛否どちらの意見、感想も目にして、改めて自分の中に内面化してしまっている差別意識・偏見と向き合うことになった。高橋と咲子の性別が逆だったらこの関係はどうなっていただろう……?とか。ただ、このドラマが自分の中の「当たり前」をほぐしてくれたことは紛れもない事実なので、その気持ちを忘れず向き合い続けたいと思う。

男性ブランココントライブ「ヘッジホッグホッジグッヘ」

特に2本目(小うどん)、3本目(スンドゥブ)、5本目(兄弟)が良かった。この2人のコントはありふれた日常の中でキャラ二人がお互い積み重ねる違和感を「ワードセンス」という形で炸裂させている気がする。引っかかるフレーズをいい感じの場所に配置するのがうまい。エコの観点→エゴの観点→おこの観点とか。小うどん↔︎大うどんとか。単体だと「偽笑い」が好き。配信限定のおまけもあって嬉しい。「変身東京ウミウシ」も配信で見るつもりだったけど普通に見逃しました。「しょんぼりサーベルタイガー学園前」は絶対見る。こんなにハイペースに新作を作り続けられるのはすごい。

堂島孝平さんバースデーイベント

すっかりアンジュルム界隈ではお馴染みの人になり、ついに楽曲提供もかなった堂島孝平さんのバースデーイベントも見た。

1部も2部も最初から最後までしっかりエンターテイナーだった!アンジュルム経由で知った人ではあるけど、すっかり堂島さんの楽曲、人となりのファンになりつつある。1部の「果実」「スプリング☆スプリンガー」が特に良かった。2部では中学1年のときに作った詞に即興で曲をつけて歌っていたんだけど、「若気の至り」を「若気の至り」のままにしてないのがなんかよかった。新曲アルバムも楽しみ!

この日に両部で「いとしの第三惑星」が歌われたことを忘れないでいたい。

ミュージカル「新テニスの王子様

待ちわびた新テニミュ2弾!!これは別記事で感想書きます。とにかく迫力や凄味を感じて、1st~3rdのテニミュとも4thテニミュとも違った面白さでした。

空気階段第5回単独公演「fart」

面白かった!バカみたいに笑って面白かった……けど、正直「anna」越えではなかったな……と冷静になって思う。「anna」は笑いとじんわり暖かくなる気持ちが同時に来ることが多いタイプの笑い、「fart」はバカみたいに笑った後にぬくもりが後からやってくるタイプの笑いなので比較は難しいが……。「baby」「anna」に関しては↓で書いたけど、

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この2本とKOC優勝を経てどこへ行くのか?どうしたいか?がまだはっきりと見えてこないところはあった。こっちが真新しい何かを期待し過ぎたのかもしれないが。新作ライブが復活するみたいなのでそれでどんな風になっていくか見ていきたいと思います。

アニメ「平家物語

heike-anime.asmik-ace.co.jp

善悪両方併せ持つ生きた人間としての平家と源氏。成人男性たちの権力争いに無慈悲に巻き込まれていく女性や子供。それらをありのまま語り継ごうと決意するびわ。「儚い」はなんとなくわかっても「滅びゆくことの美学」と「その先も何事もなかったかのように続く日常」がわからなかった自分にそれを教えてくれたと思う。

読んだもの(漫画以外)

雪舟えま「恋シタイヨウ系」

一つのカップルの過去/未来/パラレルワールドという形で太陽系を巡る物語。ほのぼのSFロマンス。何度も何度も違う年齢・立場・性別・種族で出会う2人は全然違う生活を辿るんだけど、自然と共通項が浮かび上がってきたときの嬉しさったらない。Twitterのオタクが「百合とSFは相性いいけどBLとSFはいまいち」って言ってるの見かけたことあるんだけどこれ読んだ後なら堂々と嘘つけボケって言えるね。

平子祐希「今日も嫁を口説こうか」

この生活は自分には真似できない(し、多分彼のようなことを実践するタイプの人は私をパートナーに選ばないと思う)と思いながらも、違う文化として面白いな〜と思いながら読んだ。家事分担に対する持論とか。「平子る」とそうじゃない所の間をチラ見させてもらってる感覚になった。

森見登美彦「夜行」

「曙光」と「夜行」という同じ作者の連作がつなぐ昼・夜の二つの世界の物語。1-4章までは旅先での奇妙な出来事の語り形式なんだけど、そこで起きた怪奇現象が明確な解決を迎えないまま終わる、その「スッキリしない感じ」がかえって魅力になっていたと思う。最終章も「実は『夜行』の世界と『曙光』の世界があって二つの世界は違うルートを辿っている」っていうオチは驚きがあるけれど、「どこかにそういうもう一つの世界がある」という事実を知っただけで、最初から話題になっていた長谷川さんの失踪が解決するわけではない。だからこそ現実世界と地続きになった奇妙さがこの作品にはあるのだと思った。森見登美彦作品読んでると京都行きたくなるね。今回色んな場所が出てくるけど結局この人の作品で描かれる「場所」で一番生き生きしてるのは京都だと思う。

雪舟えま「緑と盾 ハイスクール・デイズ」

時系列的にこの話の未来にある「恋シタイヨウ系」を先に読んでたのでこんな3ヶ月と少しで出会い〜結ばれるに至ってるのかとちょっとびっくりした。緑が盾を好きになるのがすごく唐突だけど現実の恋愛も気付いたら好きになってるもんだしよくわからん組み合わせで付き合ってたりするもんだしなと思いながら読んだ。でもなんで舞台設定が未来の日本なんだろう。そこだけ引っかかった。

緑が盾を頑張って下の名前で呼ぼうとするところが1番よかった。ここが実質セックスみたいなもんだろ(暴論)

「ほんとうはおれは、大きな愛の流れの通過点なのではないか?」ここ結構好きなんだけど誰にでも愛し愛される経験があるって思考じゃないと出てこない言葉ではあるよな。

緑は機能不全家庭で育ったがその孤独が埋まるわけではなくむしろ恋することで新たな孤独が生まれ、盾は誰にも自分の奥底を踏み込ませないタイプの孤独感がある。2人にそれぞれ違う形の孤独があって、読んだ後に自分の孤独と向き合いたいと思えた。多分この2人は恋仲になれずとも(あるいは別れることになっても)出会えたことを記憶の底で大事に抱えて生きるんだろうな。そういう生き方のできる人たちだと思う。まあその後死ぬまで一緒なことが確定してるんですが……

みどたてのイメソンは「地球は今日も愛を育む/スマイレージ」ですね。

加納愛子「イルカも泳ぐわい。」

 

エッセイ、日記というよりは「加納さんが面白いと思ったことを文章という形式でちょっと覗かせてもらってる」感覚。日常と非日常の境界線が知らない間に曖昧になっていくのはAマッソの漫才にも通ずるものがあると感じた。番外編の短編小説「帰路酒」は私が好きな「世にも奇妙な物語」や「岸辺露伴は動かない」のような日常に「あるかもしれない」不思議の話で感覚がマッチした気がして嬉しかった。

石崎洋司「6年1組 黒魔女さんが通る!!」(1~10巻)

この作品については今現在最も俺くんを狂わせているため別記事に感想分けました。

lettucekunchansan.hatenablog.com

石崎洋司陰陽師東海寺迦楼羅の事件簿」(1~2巻)

かの「黒魔女さんが通る!!」シリーズの公式スピンオフ。

回向寺と祈祷寺の違い、祈祷寺は一般的な仏教だけではなく密教の秘術、陰陽道修験道、神仙道など利益になるものならどんな呪術でも使うって説明で陰陽師そのものに対する疑問にちょっと納得がいった。紫苑家とも繋がってるのね……(イラストだけ見ると小春は百合ちゃんの先祖に見えなくも無いが……これは微妙なライン)迦楼羅がいかに美少年であるかってのに何行、全体の何割使ってんだ?ってぐらい文字だけで顔の綺麗さが伝わってくる。ここのこだわりは石崎先生の強みだよね。(ギュービッドも逐一、くどいほどに色白美女なことが描かれている)こんなにガチガチにブロマンスで固めてきてるのに黒魔女シリーズの読者は「彼らがくっつくことは絶対にありえない」って分かった上で読むんだよな。これはこれで……!

あと出てくる怪異のグロテスクさ、不気味さが黒魔女さん本編とは段違いだった。これが黒魔女さん本編と地続きの世界と思うとちょっと震える。人体自然発火で骨も残らず焼け落ちてるのに足だけ燃えずに残ってる……とか描写がかなりリアル。「WW2期、旧日本軍の中にガス兵器、生物兵器を極秘で作る部隊があってその中には霊力を使った心霊武器開発の部門もあった……」とかもかなり生々しいオカルトだし、「霊力を使えば霊力も記憶も奪って廃人にできる」設定もエグいが、要所要所で黒魔女さんの流れを感じるから不思議。(あっちにも馬鹿馬鹿しい効力の魔法が多い中に黒死呪文とかあるわけだし)

本編は魔女だから西洋呪術メインだけどこっちは東洋呪術がメインでそれも新鮮。

迦楼羅さん、知的好奇心の塊で陰陽師らしからぬ行動力で動いて解決していくスタンス。人生の相棒と言っても過言では無い双子の妹の不在を(無意識に)豪太郎で埋めようとしてて、挙げ句の果てに2人の出会いを「シンクロニシティ」って定義しちゃうのウワア〜〜って感じだ。豪太郎も豪太郎で「迦楼羅さんとおれは一心同体なんだ。」とか言うからさー……寂しいから手繋いで寝てくれって言う所エロくないか……??🤔

福来友吉とか京大光線含めた日本国内の超能力論争周りの話は全然知らなかったので調べながら読んだんだけど100年ぐらい前までは物理学や心理学を使って本気で超能力を研究しようとしてたこと自体が面白いなと思った。(1巻感想)

石崎先生は一つのテーマ(今回だとおそらく「死者と生きた人間の交流」)から縦横に知識を広げるのがうまい。多分子供の頃から調べ学習とか得意だったんだろうな……。黒魔女さん本編における鈴木薫さんの存在のありがたさを確認するよね。迦楼羅編は東洋呪術と近代文学中心にいろんな蘊蓄が出てくるのでいつも調べながら読んでる。

特に第四怪のトリックにはまんまと騙されました。序盤に自動筆記で迦楼羅が書いた「縁の下」って蠱毒と繋がってるの!?東海寺父がやったのか!?って思ったらまんまと騙されました。記憶を捏造するとか……予想できん。ロジカルなミステリーではあるけど超常現象も当たり前に起こる世界なのでこういうことがある。

今回もやってんな!と思うところあったので未来の自分のために抜き出しておきます

「ああ、やっぱり豪太郎さんです!ちゃんとおぼえていてくれたんですね!」迦楼羅が、花のような笑みを浮かべると、肩を寄せてきた。

 

ふりかえると、迦楼羅が鬼のような目つきで、おれをにらみつけている。

「怪しいですね、豪太郎さん!」

「え?い、いや、おれは、あんなやつ、なんとも思ってな……」

「お願いですから、わたしのそばから、絶対に離れないでくださいね!」

「わ、わかってるぜ。いままでだって、ずっと……」

(中略)

迦楼羅が、怪しいとか、離れるなといったのは、そういうことだったのだ。

─おれは、それを迦楼羅のやきもちと誤解したりして……。

思い返しただけで、顔から火を吹きそうなほど、恥ずかしい。

 

本当に何?????????私がBL好きなのでそういうフィルターがかかってるのかもしれないが……本編の描写は言い逃れできないわよ……

第四怪の舞台が東京のはずれの田舎(1950年代時点)で、落合川があるということは今の黒魔女さんの舞台からそう遠くないんだろうけど、やっぱり第一小の校区は23区外のニュータウン(多摩〜八王子あたり)なんですかね。東京には明るくないので有識者の意見が知りたい。

あとこれは全然本筋には関係なくてむしろ黒魔女さん本編に関わる話だけど、紫苑家は旧財閥の大金持ちなら(今でもメグが毎日全身ハイブランドの服で学校に行ってるあたり財力は衰えてないことがうかがえる)小学校から私立に行かせる手段もあっただろうにあえて公立小学校に行かせたのはなんでだろう。 (2巻感想)

今のところ脳内妄想CVは

豪太郎…小野友樹

迦楼羅入野自由

妙子…高橋李依

小春…巽悠衣子

ですね。

柚木麻子「本屋さんのダイアナ

 

全体的に「男では耐えられない痛みでも 女なら耐えられます 強いから」って歌マスのフレーズ思い出しちゃうシーンが多かった。(耐える事をすべて肯定しているわけではない)ボタンのかけ違いで幼馴染や親子がすれ違ってしまう描写がリアルでソワソワしてしまう。
ティアラはダイアナにショックを与えたくなくて小6で性的な悪戯にあったこと、それがトラウマで誰にも話せなかったこと、男から自分を守るために金髪にしたこと、同じ理由でそれを娘にもさせてること、全部隠してるけど、それのせいで大きなすれ違いを産んでるのがしんどかった。しかもそれを(あくまでも他人の)彩子には話せてるってのも。その後もティアラが本音で話そうとすればするほどダイアナが遠ざかっていくので、誰かこの状況気付いて!!っていう。
あと彩子がヤリサーに巻き込まれて先輩にレイプされる描写も生々しくてキツかった。その後も先輩に合わせてしまう彩子も余計につらい。人が求めるものがすぐにわかっちゃうタイプの賢さってこういう風に自分自身を苦しめるよなあ……

「女の子ってやっぱいいよな。うん。自立したら、友達になれるんだもんね」

これでアンジュ卒業後のまろめいかな/あやタケりなのこと思い出した。じゃあ男って自立した先でどこに行くの?
武田くんが最終的にダイアナとも彩子ともくっつかないのも、ダイアナは一度は考えた改名を踏み留まってそのままの名前なのもよかった。(それでもHNにAYAって使っちゃうところが好き。本当に彩子との日々が大切なんだなと思う)
終盤の好きなフレーズ抜粋

「優れた少女小説は大人になって読み返しても、やっぱり面白いのだ。はっとり先生が言ったことは正しい。あの頃は共感できなかった心情が手にとるようにわかったり、気にも留めなかった脇役が俄然魅力を持って輝き出すこともある。新しい発見を得ることができるのと同時に、自らの成長に気づかされるのだ。」

「幼い頃はぐくまれた友情もまた、栞を挟んだところを開けば本を閉じた時の記憶と空気が蘇るように、いくつになっても取り戻せるのではないだろうか。何度でも読み返せる。何度でもやり直せる。何度でも出会える。再開と出発に世界中で一番ふさわしい場所だから、ダイアナは本屋さんが大好きなのだ。」

佐藤多佳子「明るい夜に出かけて」

なんの前情報もなしで読んだからアルピーのANNがこんなにがっつり話の根幹にかかわってくるの知らなくてびっくりした。ラジオが繋いだ縁ってことで「anna」を思い出したりもした。こういう緩やかだけど確実な繋がりって必要だよね。SNSも緩やかなつながりではあるけどそれともまた違う感じ。

「ただ、俺、二人で長い時間一緒にいて、イヤじゃない相手って、めったにいない。」

「色々。色々ある。色々あって、よくわかんない。色んなこと聞きたいし、話したい。いっぱい話したい」

決して特別で運命的ではなかったとしても、こういう出会いはある。その手助けになってくれるのが趣味なんだろうなと思った。そして、この話は人との繋がりを介してやりたいことを見つける話でもあると感じた。

「考えたことなかった。私が何か作る。他の人が、そこから、また何か作る。パクるんじゃなくて、ぜんぜん新しいものを作る」

特にこの台詞はアルピーのANNが大きく関わるこの作品で言うからこそ響く。共感や影響だけでは言い尽くせない。

この本きっかけでアルピーのラジオ聴き始めました。嘘と本当の境界線がぐにゃぐにゃになっていく感覚で脳汁出る。

せきしろ×又吉直樹「まさかジープで来るとは」

知らないはずの景色が奥行きを持って思い浮かんでくるのが(自由律)俳句の面白さだと思った。写真と俳句は似てる。

三浦しをん「きみはポラリス

いろいろな恋愛の形。その中で共通しているのはそれぞれの形で思いを「貫いている」所だと思う。あと若い頃の同性や年上の身近な人への恋心を「一時の気の迷い」で片付けようとしてない。特に好きなのは「夜にあふれるもの」「森を歩く」。神秘的なものに恍惚となる「信仰」に近い気持ち(私にとっては信仰そのものではない)と恋心はある程度重なる所があると思う。信仰の土台になる知識や理論を理解した上で……というより神秘体験そのものに焦がれているのが肝

「森を歩く」で好きなフレーズ抜粋しておきます

「捨松と森を歩くのも悪くない。捨松はいつか、植物を夢中になって追うあまり、今日みたいな崖から人知れず転落死してしまうかもしれないし、私は明日にも、車にはねられて死ぬかもしれない。この先どうなるかなんてだれにもわからないんだから、捨松と行けるところまでは一緒に、道もない森のなかを進んでみるのもいいだろう。」

「そうして捨松が見せた笑顔を、私はきっと、ずっと覚えているだろう。もしもいつか、私たちの心が遠く隔てられてしまう日が来ても、この笑顔はいつも私のどこかにあり、花が咲いて散って実をつけるみたいに完璧な調和のなかで、私の記憶を磨きつづけるのだ。」

しかしお題「王道」から死体埋めが出てくる三浦しをんェ……

あと危険日・安全日の概念を当たり前に使ってるのにちょっと時代感じてしまった

 

 

今後もこういう感じで四半期ごとにまとめて書けたらと思います。

2021年もありがとうございました!!

ちょっと今年ほんとブログ書かなさ過ぎて総括とか書く時間もないんですけど簡単な形ではありますが挨拶だけでもさせてください……

2021年はまあ比較的楽しかったかなという感じです。道は自分で開いていくものと気付

けた一年でした。選ぶのも自分・捨てるのも自分。そして、創るのも自分。

 

よかったこと

  • Zoomやスペースのおかげでインターネットでの交友関係が広がったこと
  • ハロプロ評論合同誌を出せたこと

lettuceorcabbage.booth.pm

  • 初のコピー本を出せたこと※頒布終了、WEB再録もうちょっと待ってね

#橘杏 #神尾アキラ 【ネップリコピー本サンプル】アプリコット・ジャム - レタスの小説 - pixiv

  • elaboに加入して難題へ直面しても思考を続ける事を諦めない人たちにたくさん出会えたこと

www.elabo-mag.com

  • 笠原桃奈さんという逸材にきちんと手を振ってさようならをできたこと
  • リョーマ!という最高の映画に出会えたこと
  • 空気階段という新しいサイコゥサイコゥサイコゥの推しを見つけたこと

 

ムカついたことはこれの倍ぐらいあるし読んでるほうも気分がいいもんじゃないだろうしやめときます。

 

来年はちゃんとしたいこと

  • 毎日、日記を書く(今年は三週間で終わった)
  • 課題を出し忘れない
  • どのジャンルの現場でもいいので東京遠征する
  • もっとエンタメへのアンテナを広げる(食わず嫌いを避ける)
  •  

来年も適度に適当に頑張ります。

「リョーマ!The Prince of Tennis 新生劇場版テニスの王子様」感想・考察・妄想

※特別お題「わたしの推し」に参加してます

 

※「新テニスの王子様」単行本35巻のネタバレが発生します

 

今年はブログを書く件数、頻度共にガクっと落ちてしまった。具体的に言うと放置されたブログと見なされ広告が出るぐらいである。見たもの聴いたものに関しての感想自体はあるのに色々とTwitterで済ませてしまうことが多く、後で遡ろうと思ってもなかなか見つからない。ブログは「誰かに読んでもらうため」というよりかは自分自身の記録の放流として書いているのだが、こうなってしまっては本末転倒である。

そして、この記事も本当は鉄は熱いうちに打て精神で私的ラスト鑑賞後すぐに書こうと思っていたのだけれど、その後本誌で起こったまさかの展開も盛り込もうとしてたらずるずるとこの日までずれ込んでしまった。

そんなわけで今年最後のブログです(まあまあ不本意)。公式サイトは↓へ。

gaga.ne.jp

 

パワープレイの皮を被った最大公約数としてのオープニング

本作は、これまで描かれてこなかった「テニスの王子様(以下「無印」)」と「新テニスの王子様(以下新テニ)」の間の三か月間を描く作品である。「原作未読でも楽しめる」という触れ込みのもと、「これまでのあらすじ」的な要素も、要所をかいつまみつつ全体を拾っていくと思っていた。上演前までは。

しかし、本編が始まって30秒やそこらで「Dear Prince~テニスの王子様たちへ~」の軽快なメロディと共に、天衣無縫の極みに覚醒したリョーマと無印のラスボス・幸村の戦いがダイナミックなカメラワークで描かれる。そして驚くべきことに、そのサイドではチームメイトや観衆が歌に合わせてダンスしているのである。

「なんだこれは!?」という驚きと同時に、「ああこれがテニプリだ……」という安心感もこみ上げて来ていた。

この「Dear Prince~テニスの王子様たちへ~」は無印でも最終回、リョーマVS幸村戦が終わり、すべての戦いに幕が下りた後にエンドロールのようにコマに歌詞が載せられているのだが、その印象を引き継ぎながらも、「見たことがないはずなのに見たことがある気がする」新たなシーンとして、本編に対する読者の記憶と記録を圧縮しわずか3分足らずの尺で昇華していた。しかも、ただ映像を見ているのではなく、映像・音楽が融合したエンタメ「体験」としての充実感も申し分ない。繰り返すが、まだ冒頭3分足らずの出来事である。

「説明感」を極力脱臭しながら「こういう作品ですよ」という説明、つまり「無印」との接続点として描く最大公約数となっていたリョーマVS幸村戦の再解釈だった。

ちなみにここのテニスシーンは、アニメやミュージカルでも表現の難しかったボールの回転や空間全体の立体感、広がりをうまく表現していて、こだわりが感じられる。テニスじゃないなんでもアリだとインターネットのオタクどもにいじられていても、そうしたトンデモ展開と矛盾なく両立するテニスへのこだわりを感じる*1、そうした所も「圧縮された」テニプリの素晴らしいポイントの一つだと言えよう。

テニプリ世界においてテニスとは何なのか

結論から言うと、テニプリ世界におけるテニスは「コミュニケーション」である。「テニス語」という言語なのだ。しかも、言語や立場を超えた究極の形として描かれる。2パターンある本作のうち「Decide」では、リョーマと手塚の関係を通してその形が強調されたように感じた。*2

リョーマ、手塚は同じ学校の部長と新入生という立場でありながら、この二人が長く言葉を交わすシーンはほとんどない。かの有名な「お前は青学の柱になれ」以降、リョーマはその言葉に対する答えを、言葉よりもテニスのプレイで返してきた。そのうえ、無印42巻末に収録された青学の卒業式統一を描く小説(許斐先生作)では、手塚の卒業間際であろうがお構いなしでテニスの試合を持ちかけてくる。それほど、彼ら二人にとって最高のコミュニケーション手段がテニスだったのだろう。

「Decide」でも、父・南次郎に電話をかけようとするとなぜか不思議なパワーで時空を超えて現代の手塚に繋がってしまう……というシーンがあるのだが(おそらくこのブログを読んでいる人に「リョーマ!」未見の人はいないと思うので詳細を省いて起きたことそのままを記述しているのだが、未見の人にとっては何のことだかさっぱりわからないシーンであることを文字に起こすことで再確認してしまった……)、そこでも手塚が窮地のリョーマに贈った言葉は、

「ただ一つ……テニスを思い出せ越前!!一番苦しい時、リターンはどこに打つ?」

である。

この二人が打つ一球には一体どれほどの意味が込められていたのだろうか。これからどのような意味が込められていくのだろうか。ほんの短い言葉ではあったのに、この二つを感じ取って、胸が熱くなった。

また、「リョーマ!」の物語における起承転結*3のうち最大の「転」の一つであるリョーマとエメラルドの勝負であるが、そこでもまたテニスが「コミュニケーション」として作用している。

二人の歌う挿入歌「DANGER GAME」が劇場中を沸騰させるほどにテンションを上げていく中で、言葉を交わさずとも互いの熱意がラリーされていく。このことについて、的確に言い表している人がいた。

テニミュの初代リョーマ役でお馴染み・柳浩太郎さんである。

これがあまりにも的確過ぎてもう自分で書くことねえなと思いつつ自分なりに書くと、(劇中でその点について詳しく触れられることはなかったものの、おそらく「女性であること」や「マフィアの子であること」などが足枷となってかつての夢や情熱を失ってしまったと考えられる)エメラルドの中で眠っていた情熱を揺り起こしてくれたのが、リョーマという「ゾクゾクする」存在との出会いなのだろう。

しかしこの「カウンセリング」という言葉がリョーマVSエメラルドにおいて的確過ぎる……

リョーマ!」の劇中歌のポジション

以前の記事ではテニプリという作品におけるキャラソンの立場を、「原作のエピソードをキャラクター個別の視座で再解釈」する立ち位置」であり、「同じ時点のことであっても様々なキャラの異なる視点・文脈が重なり合うことで、物語全体が縦横に広がり、作中世界全体がさらに深まる」もの、「ただ本編の展開と同期したキャラソンが生まれるだけではなく、その作中世界に生きている血の通った人間としての感情が滲み出ている」と解釈した。しかし、今作で歌われる劇中歌にはそれ以外の役割も存在したのではないだろうか。

今作の感想(主にテニプリ初見・出戻り勢からのもの)で、「テニミュっぽい」という意見を目にした。たしかに劇中では何度も歌って踊るシーンが出てくるのでそうとも取れるのだ。ミュージカル有識者(これはオタク話法としての「有識者」です)からは「ラ・ラ・ランド」のオマージュなのではないかと指摘されているシーンもある。しかし許斐先生の口からは「ミュージカル映画として作ってはいない」という発言もある。これはどういうことなのだろうかと自分なりに考えてみた。

許斐先生の考える劇中歌としてのキャラソンは、「シンプルな感情の爆発」なのではないか、と思うのである。

Golden age 350「プロには出来ない」にて、予想だにしなかった、許斐先生が作詞を手掛ける平等院の新曲「Death Parade ~どちらかを選べ!!~」の歌詞がコマに載せる形で公表された。プロには出来ないやり方として文字通り自らの命を賭し、そのことで日本代表の他のメンバーを鼓舞する平等院の気持ちが率直に描かれている歌詞だ。ほか、「新テニ」では手塚VS幸村戦のクライマックス、Golden age 306「手塚国光」で既存のキャラソン「Decide」の歌詞が使用されている。

たしかにこうした歌に感情を乗せたり、状況説明させたりして物語を進める手法は、「テニミュ」という文脈を無視してもミュージカル的でもある。しかしそれだけではなく、前述の「ただ本編の展開と同期したキャラソンが生まれるだけではなく、その作中世界に生きている血の通った人間としての感情が滲み出ている」要素も持っていると感じた。たとえば、「peace of mind~星の歌を聴きながら~」では、「リョーマ!」劇中でほぼ言葉での明確な説明がなかった*4桜乃の心情が、原作*5のエピソードを彷彿とさせる単語も交えながら明かされている。

よって、こうした原作の表現を踏まえて考えると、単にミュージカル的だからこのような表現を使ったというよりかは、「感情の爆発」を表現しようとした結果ミュージカル的になったのではないかと推察した。

「世界を敵に回しても」

さて、劇中歌の中でも特に注目すべきは、大団円として空からチームメイトやライバルが召喚される中で歌い、踊り、親子試合を繰り広げる「世界を敵に回しても」だろう。この曲には「リョーマ!」の肝となる要素が凝縮されているうえに、テニプリという作品が背負う縦横の文脈を端的に表すポイントが散りばめられているのだ。

まず、「リョーマ!」本編でもテーマになっていた越前リョーマと越前南次郎の親子関係。純粋にテニスを楽しむ強者・南次郎と彼に憧れ背中を追い続けるリョーマの関係は、「新テニ」も佳境を迎え、南次郎がU-17W杯会場であるメルボルンに降り立った今再確認される価値が十二分にあると考える。

続いて、公開直後から話題をかっさらっていった、手塚や跡部様たちを差し置いて柳生が持って行ったこの曲で(リョーマ・南次郎以外が歌うパートとしては)もっとも長いパート。原作でも柳生とリョーマが直接言葉を交わしたことはないため、一時期Twitterのサジェストでも「柳生 リョーマ 親友」や「柳生 リョーマの何」が盛り上がっていたことは今でも記憶に新しい。この部分の選抜理由に関しては、許斐先生からは「新テニ」34巻末インタビューにて「漫画を描いていると台詞を考えるより先にキャラが先に喋っている声が聞こえることがあります。」ということを理由としていたが、この部分に関しては、アニメで柳生のCVを担当する津田英佑さんのずば抜けた歌唱力によるものも大きいと思う。こうしたメタな要素は、テニミュ1stシーズンで佐伯虎次郎を演じた伊礼彼方さんが「無駄に男前」と言われたことが原作の佐伯にも逆輸入されたことなどの前例がある。こうした各種メディアミックス展開を緩やかに、でも確実につなげる要素がこの曲に含まれている事が興味深く感じた。

そして最後に、大サビの

世界を敵に回しても 譲れないものがある

素敵な仲間と 愛すべき人達

そして俺の心の中にある自尊心(プライド)

あなたが教えた宝物

 

というフレーズに注目したい。このフレーズは、「君と僕」⇔「世界の危機」を二極化し、どちらかを選ぶよう迫られる状況になる、いわゆる「セカイ系」とは似て非なるものであると考えた。テニプリ世界において「君と僕」のきわめて小さく個人的な関係と、「世界の危機と僕」という抽象的で大きすぎる関係は決して切り離せるものではなく、繋がっており、「君と僕」を大切にしてこそ、「世界の危機と僕」に立ち向かえるとも読めるし、あるいは映画本編の出来事を踏まえると、傍から見ると「君と僕」規模の出来事が、ある一点から見ると「世界の危機と僕」レベルの大きな出来事になり得る、とも読める。

こうした流れは、シンプルでわかりやすい王道のストーリーライン、カタルシスに乗っかりながらも、随所随所で「反王道」を感じさせるテニプリ本編ともリンクすると感じた。すなわち、「新生劇場版」でありながら、テニプリの真正性をこれでもかと詰め込んでいたのだ。

王道と反王道をしなやかに両立してくれるからこそ、私はこの作品が大好きなのだと再確認できた瞬間でもある。

原作者が一番マーケティング上手なコンテンツことテニプリ

先述の通り、冒頭は単なる「これまでのあらすじ」にせずドラマチックなリョーマVS幸村戦の再構成で鮮やかなエンタメ体験を刻み、最後は「新テニ」の合宿にしれっと接続し続きを示唆する。そうして「新テニに続く」エンドかと思いきや本編の画像をこれでもかと有効活用した公式MADこと「シアター☆テニフェスpetit!」につながる。1本の映画を見ているはずなのに、1幕がストーリー有の演劇、2幕がショーの舞台を見たような感覚になれるのだ。原作を読みふけった諸賢にとっては様々な思い出が噴出する瞬間だっただろう。そして原作未読勢にとっては本編以上の「なんだこれ!?」の嵐だったに違いない。しかし「気になる」「読みたい」という感情を掻き立てたのも事実だろう。

今まで自分が感じた中で、テニプリの外野からの印象は「無印:有名なタイトルだけど古いのでよくわからない、懐かしい 新テニ:なんかちょくちょくネットで話題になってる面白いコマがある」が多かったように思える。さらに巻数の多さ、各種メディアミックス展開というこのジャンルの縦横の広さが布教のネックにもなっていたはずなのに、Twitterを見てみると原作を一気読みしてハマった他ジャンルのオタクや出戻りオタクがなんと多いこと……!これはもう許斐先生がどんなオタクのダイマよりも効くマーケティングを展開してくれたのだろうと思っている。

リョーマ!の物語が原作や各種メディアミックスと少し違う時間軸で起こったパラレルワールドの出来事なのか、それとも原作と地続きなのかは今はまだはっきりしていない。しかし、仮に後者だった場合「タイムスリップで過去の世界にやってきたリョーマを南次郎は自分の息子と認識していたのか」が今後の展開で明かされるとするならば、「原作を読んでもらい、盛り上げるためにメディアミックスにも力を注いでいる」という許斐先生の言葉にも一層説得力があるように感じるのだ。

 

おわりに

リョーマ!を見て、改めてテニプリというコンテンツが持っている22年の潮流を感じた。今でも形を変えて色々な世代から愛される理由は、王道と反王道、トンデモ展開とシリアスさなど相反する要素を軽やかに両立させる「テニプリらしさ」や、90年代末期~ゼロ年代半ばのノリ*6を冷凍保存しつつ、ストーリー、キャラクターなど多方面*7で今にフィットするように変容し続け、そのあり方でまた相反する要素の両立を実現してみせるコンテンツだからなのではないか、と思う。

 

リョーマ!」、既にU-NEXT*8では配信始まってるうえに、2022年も応援上映会を開催するみたいなので何卒!!

*1:現実のテニスの公式大会ルールで禁じられていることは、テニプリ世界でもできないことになっている

*2:そういう意味で、「Decide」は正史、もう一つの「Glory」はファンサービスの色が強いとみている

*3:まあこの作品は起承転転転結みたいな畳みかけ方をしてくるが

*4:この辺は原作を読みこんでいる人向けの省略描写だったように思える。未見の人にヒロインとしての竜崎桜乃がどう映ったのか聞いてみたい

*5:該当シーンは「新テニ」での出来事なのである意味将来を予見するような匂いもある

*6:南次郎周辺の描写とか、大人が干渉しないことによる子供・若者による勢い・青臭さの熱量がもたらす作品全体の空気感

*7:テニプリはこの時代生まれの作品にしてはかなりキャラクター描写にダイバーシティを感じる。許斐先生が意識しているのかはさておき

*8:なぜかテニプリはU-NEXTと癒着しがち。この映画の配給のGAGAUSENの子会社だからそれ繋がり??

ミュージカル「テニスの王子様」4thシーズンをこれからも見ていきたい宣言

2021年、初演から18年を迎えたミュージカル「テニスの王子様」。
初演からキャスト、脚本、歌、演出などを変えながらも、根幹の部分はずっと変わらないまま4thシーズンに突入するかのように思えた。
しかし突然の「脚本家、演出家をはじめとしたスタッフを一新する」との報せは、私にとっては困惑と不安を運んでくる要素でしかなかった。
初めてテニミュをちゃんと見たのが去年で、

lettucekunchansan.hatenablog.com


円盤や配信を使って後追いで見てばかり*1の私ですら、馴染みのある好きな曲が聴けなくなってしまうこと*2、全く違う演出によって原作が持っている面白味が薄れてしまったらどうしよう……とあれこれ考え込んでしまっていた。
しかしいざ観てみたら、その不安は杞憂だったことがわかった。3rdまでとは違った視点から、「テニスの王子様」という漫画の持つエンタメ性、面白さに挑もうとしていることが感じられたのだ。

 

ストーリーのこと

物語は桜の舞う卒業式から始まる。えっ卒業式!?と思ったが、すぐに原作42巻(無印の最終巻)の巻末に収録されている小説のことだと気付いた。手塚の感動的な答辞で無事に卒業式が終わったかと思いきや、そこに現れる越前リョーマ
「部長!悔いが残ってしょーがないんスけど」
「俺ともう一度、戦ってもらえますか」
そして、オープニングともいえる全体曲が始まる。よく「歌詞の雰囲気が3rdまでと違う」と言われているが、ここでは今までのテニミュと使っている音の感じが違う気がして、4thシーズンが目指したい方向性が分かった気がした。ああこれは「青春の爽やかさ」を描きたいんだな、と感じた。原作もたしかに熱い展開はたくさんあるが、特に無印の関東大会あたりまでは、どこかさらりと駆け抜けていくようなところもあると感じているので、そう言うところを押し出したいのかもしれないと推測した。
そして時は一年前に巻き戻る。*3ここは舞台という形式だからこそわかりやすく伝わる演出だと感じた。

 

第一話の電車シーンからスタート。佐々部ががっつり出て来ることに動揺した。全体を通して見ると、他にも玉林中の二人や九鬼貴一、何より青学の2年非レギュラーメンツも登場していた。新テニミュから導入されたテニミュボーイズ制度のおかげである。新テニミュの頃はなぜテニミュボーイズが必要なのかあまりピンと来ていなかったが、1年トリオにカツアゲを試みる池田と林が出てきたときにものすごく嬉しくなったので、ようやくこのシステムの必要性を理解できた。テニプリはどんなに出番が少ないキャラにもファンががっちりついているからこそ、キャラを登場させることそれ自体がいい方向に機能するのだと思う。
特に、荒井が登場した時には、この燻りながらもレギュラーの先輩のことを誰よりも尊敬してる荒井が一年後にはストイック一派としてレギュラージャージを身にまとってるんだよな……と感慨深いものがこみ上げてきた。

ただこればっかりはもう仕方のないことなのかもしれないが、それによって桜乃や杏のような女子キャラ、竜崎先生のような大人たちの不在がかえって強調されたように感じられたので、そこに対するモヤつきは残った。*4

 

校内ランク戦での海堂、乾との戦い。4thシーズンではこれまでのボールに見立てた小さいピンスポと打球音でのラリー表現がなくなっていた。その代わり、決め技はセンタースクリーンやネットオブジェの代わりとして使用されることもある衝立状のオブジェにエフェクトが投映されていた。
これ以降も続くこの演出そのものに賛否両論があるようだが、個人的には(実際のテニスではあんなに派手にカンカンコンコンした打球音は鳴らないので)試合のリアリティが増して良いと思っている。あとこれは初めて知った時驚愕だったのだが、ボールに見立てたピンスポを高速で動かすのは想像以上に負担がかかりピンスポ担当の照明さん(一人しかいない)は終わった後アイシングしていたそうなので、今後も長く続けたいという意味でも新しい方法が模索されたのは良いことだと思う。
ここでリョーマより負ける側の海堂・乾に焦点が当たる(ソロ曲もある)のは、能力などをアピールすることで強力なレギュラーすら打ち負かすリョーマの強さをかえって強調させているのかもしれないと思った。ここは演出側の意図を知りたい。

 

物語は進み、今回の対戦校である不動峰の過去に焦点が当たる。かつて橘さんを演じた北代さんが、不動峰の面々に理不尽に襲い掛かる卑劣な顧問を演じていることに「文脈」を感じてしまった。
「2年の橘だ!俺より強いと思う奴は前に出ろ!」
そんな卑劣な顧問、先輩の前に突如現れた橘さん。この台詞は演者の声が吹き込まれることでより気迫を感じた。そりゃあ皆ついていきたくなるよなあと。だがこの橘さん(GAKUさん)は新テニミュの橘さんを経験しているので、オタクは勝手に二翼のあれこれを経たうえでなお、テニスを続けようと思った彼の心情みたいなものまで汲み取ってしまった。つい2年メンツと同じ視点で神格化にも近い視点で見てしまうが、彼もまた一人の人間であり、それなりの緊張感・不安を抱えながらもそれでも覚悟してここに来たんだろうと深読みした瞬間であり、2.5次元舞台特有の「文脈」を感じた瞬間でもあった。
顧問につかみかかる橘さん、その後すぐに手を出そうとするのが伊武*5で、他に突っかかっていったのが神尾と内村、止めに入ろうとしたのが桜井、森、鉄なのもよかった。これも漫画だけだとタイミングの表現が難しい部分だと思うので、舞台(身体表現)だからこその生々しさだったと思う。

 

そして地区大会が始まる。テニミュのメインディッシュだ。直近が新テニミュや3rdの全国大会だった分、その派手な演出と比べてしまいそうにもなるが、VS不動峰はいわゆる「テニヌ化」する前なので、そこほど派手な試合展開ではない。しかし、そのことがかえって爽やかさを強調するような結果になったのではないだろうか。もちろん、Winning Shot(仮)やHang in there(仮)など、歌唱面で熱さも忘れていない。特に後者は不動峰の「校歌」だと思われるが、ユニゾンの厚みが迫力を支えていた。*6しかし全体としては「爽やかさ」の方が上回っていた。これは、リョーマ・桃城VS玉林の泉・布川戦が終わった後の「またダブルスやりたくなったら、いつでもストリートテニスコートに来いよ」という言葉にもあるように、この地区大会の段階では、まだ皆「遊び・いつもの部活の延長線上」みたいな感覚が残っているからかもしれない。全国大会ではそんなことは言ってられないだろう。

そしてここでも「ピンスポや打球音がなくてもちゃんとテニミュが成立している」ことを実感した。ちゃんと試合にのめりこめる。神尾ソロで二年が一斉に駆け出して一緒にステップを踏み踊る(伊武だけはポケットに手を突っ込みながら、足のステップはやっている)ところでこれだよこれ~~!!と感じた。先述の通り音の感じは3rdまでとかなり違いがあるし、歌詞も明らかに作詞者の違いを感じさせられたが、根幹の楽しさが変わっていないとわかって安心できた。伊武のソロは、今までのスポット曲にないポエトリーリーディング的要素を取り入れたゆったりしたテンポの曲で、「今のリョーマには時間がないのにこいつめっちゃ邪魔するし煽ってくるやん!!」と一層感じられた。そしてそれをなぎ倒すところにはやはり爽快感があった。

ただ一点気になったのが、鉄のラケットに貼られていた薄いスクリーンのようなものがあまり有効活用されていないように思えたところである。このスクリーンあってもなくてもそんなに変わらないのでは……?と思いながら見ていた。これも演出側の意図が知りたい。

 

今回のVS不動峰は、地区大会が終わった後、手塚がリョーマと試合させてほしい旨を竜崎先生に頼むシーン、その一方で「月刊プロテニス」記者の井上守さんが越前南次郎と出会い、南次郎から今のリョーマの課題が語られるシーンで幕を閉じる。大事な大事なシーンである高架下の戦いもがっつり尺割いてくれるであろうことへの期待と、南次郎以外の大人の存在によって物語に客観的な視点が増えたことを同時に感じていた。特に南次郎のシーンは、映画リョーマ!を見た後だと余計にリョーマの師匠としての彼の焦りが見えてきた。

そして何より素直に、この続きを早く見せてくれと心が叫んでいた。

 

キャストのこと

(以下キャストのことは全員キャラクター名で記述します)

特に印象的だった人たちだけだがざっくり記録しておこうと思う。

桃は新テニミュからの続投だったが本当に成長率がすごい。でも多分まだ何か隠し持ってそう。11代目青学がいつまで活動するかはわからないけどなるべく長く居てほしい。

菊丸は本当に、本当に手数が多い。今回みんなこなれたベンチワークだな?と思いつつも特に目を惹くことをやり続けてきたのが菊丸だったと思う。「俺あそこ(不動峰)の顧問きら~~~~い」ですごい顔になってたのがよかった。

多分皆乾にうっすらガチ恋なんだと思う。フレンドリーさとどこか放っておけない感じがよかった。

伊武はお披露目会あたりからずっと言われてたけどめっちゃ伊武だった。びっくりした。

内村のダンスがシャキシャキしててよかった。アンコールの自己紹介曲で毎回ビビってた。

 

おわりに

べた褒め8:不安感2みたいな文章でしたが、これからどうなるのかはすごく興味があります。シーズンが始まったばかりで過去のシーズンと比較するにも情報量が足りませんし、全肯定するにも全否定するにも時期尚早感が否めないので、ひとまず楽しみながら見守っていこうという考えを文章にしてみました。今はあまり製作者サイドから直接色々な言及が聞けてないので(キャストの発言経由で知ることはある)、特に演出に関して色々直接知りたいことが多いです。序盤の空気感も相まって3rdまでよりもさっぱりした爽やかさを感じることが多かったのですがそれが意図的なのか……とか。

最後に一つ。今、過去曲に対する未練が全くないと言えば嘘になるので、Force of Gravity(仮)で一瞬Do Your Best!のフレーズが出てきたときはそうそうこういうのでいいんだよ……ってなりましたし、ドリライで歌ってくれることがあれば悔いはないな……と思っています。おれにも生のマリオネットを聞かせておくれ~~……

*1:リアタイで追い始めたのは新テニミュから

*2:4thルド公演で絶対に生のマリオネットを聴いてやると意気込んでいた

*3:映画リョーマ!がタイムスリップする映画だという情報が与えられ、本誌ではボルクによってお頭がタイムループに飲み込まれる展開が繰り広げられるこの時期にこの演出が見られたことは偶然かもしれないが、「オールテニプリ」の波動を感じた

*4:たとえばVS山吹だと竜崎先生vs伴爺の場外戦も含めて魅力的な試合なので、そういう場面でどう感じるんだろう……と脳裏をよぎった

*5:その後地区大会で九鬼にも突っかかろうとしているので、一番キレやすくて一番心の中の橘さんが占める割合がデカいのが伊武なのでは?と思った

*6:欲を言えば前者はラケットを持って歌ってほしかった。ラブ!フィフティーン!サーティー!フォーティー!って言ってるし