新緑ノスタルジア

生きていくのがVERY楽しい

読んだ本(4月)

lettucekunchansan.hatenablog.com

1~3月はここから。

ジャンル混在、ネタバレ配慮ゼロ、読んだ順です

 

星野源『よみがえる変態』

くも膜下出血で倒れる前後の3年間を記したエッセイで、闘病中の出来事や気持ちにも仔細に触れてるのに悲壮感がほとんど感じられないのが独特。入院中の出来事を動画に撮って記録して公開しようとしていたのも知らなかったので驚いた。最低のどん底に見える状況でも自分に、世界に希望を持とうとしてると思った。ただ、文庫版後書き(2019年)として「ただ、この作品の頃は、まだ希望をしっかりと持っていたと思います。(中略)今、僕の目の前には、いつも絶望があります。(中略)どんなに頑張っても、この世の中は馬鹿なままだし、最悪になっていく一方だよ。例えば昔の自分にそう言っても、きっちり『いや、そんなことはない』と言うでしょう。そこが彼のとてもいいところだなと思います。」と書いてあって、10年代ってそういう時代だったよなと思ってしまった。星野源でもそういう気持ちになるんだな。淡々と自分と向き合って面白いことをやり続けるしかないってのもわかるし。

真面目な哲学もくだらない下ネタも垣根なく並べられているのが割と自分の理想だった。

 

岩井勇気『僕の人生には事件が起きない』

「事件」のない、傍から見ればなんてことのない日常を展開して読者に咀嚼させる。文章としてのエッセイはきっと廃れないと思った。珪藻土の話、薄い親戚付き合いのキツさ、めっちゃわかるwwwwww

 

塙宣之言い訳 関東芸人はなぜM-1で勝てないのか』

 

自虐ネタは「その人にしかできない」分「ネタ」ではなく「フリートーク」という考えは自分にはなくて面白かった。

「競馬における『距離適正』があるように、漫才師にも『時間適正』というものがあります。」

 

「漫才にクラシック三冠のように、2000メートルの皐月賞、2400メートルの日本ダービー、3000メートルの菊花賞と、時間ごとの大会があったとしたら、三冠王候補は断トツで中川家でしょうね。」

 

この辺の「時間適正」の概念も目から鱗だった。

「誰しも黒い部分を持っていて、そこを解放してあげることもお笑いの役割のうちの一つだと思っているのですが、嫌な気分にはなって欲しくない。」

 

これはすごくわかる。2019年時点、トム・ブラウンとマヂラブに(同じしっちゃかめっちゃかな漫才でも)正反対の評価を下していて、2020年以降はどういう評価軸で見てるのかも気になる。ブログで毎日短い漫才を書いて投稿するのを続けてると聞いて見に行ったけど1〜2往復の会話でこんなに面白いものを作れるとは!ダウンタウンVS爆笑問題の時事ネタ対決はいつか見てみたい。

漫才を見る視点が増える一冊だった。

 

雪舟えま『凍土二人行黒スープ付き』

う〜〜〜ん…………SFチックな世界設定は好きだし人外×人間も好きなんだけどもっと根本的なこの人の思想的な部分が気に入らないぜ〜〜〜〜………

『シールの素晴らしいアイデア』のシールはやふぞうっぽいけど最終的にサバと恋仲に近くなるところに違和感があった。そうじゃないだろ?あとこの人の描く二人組(恋愛かそうでないか問わず)って片方が「他者に必要とされること、存在していいと許してもらえること」でもう片方に寄りかかってる事が多いんだよな。それ自体が悪いわけじゃないけどそういう行為が孕んでる有害性みたいなものを無視しているような感じもあってモヤつく(有害性を理解した上でそれでも選ぶんだ!となる作品は好き)。『緑と盾』『恋シタイヨウ系』は割と好きだったのはいろんな関係性に視点を変えずに緑・盾(パラレルワールドも含む)の極めて個人的なところから動かなかったからかもしれない。いろんなコンビでやってるオムニバスだから「そういう思想が根底にあって書いてる」ってのに気付きやすくて、そこがキツかったのかも。緑と盾シリーズ以外はもういいかな……

 

絲山秋子『夢も見ずに眠った。』

 

日本各地を巡りながら自分の生き方、考え方にも思いを馳せるふたりの物語。何歳になっても人は脅かされることなく安全に暮らせる「楽園」を探してしまうのが現実だし、その中で現れる「異物」としての他者にどう向き合うかに人柄が出るんだと思う。鷹揚さで時に周囲を和ませ、苛立たせる高之の方が自分に似ていると思ったが、沙和子のように過剰に周りの期待や要望に沿ってしまいながらも満たされない気持ちを抱えている気持ちもわかる。でも結局みんな自分のためにしか生きられないんじゃないかな。

「すべてはばからしく、同時にいとおしいと思われるだけの価値を持っていた。矮小な存在でありながら無限と繋がっているのだった。かれは巨大な織物の一本の糸を構成する微細な繊維にすぎなかったが、その織物は単色でありながら虹のようにあらゆる色を含み、軽くしなやかなのに織り目は誰にも解きほぐすことができないほど複雑なのだった。」

日記やエッセイにも言えるけど、特に大それた事件の起きないありふれた日々を表現するのには文字媒体が一番向いてるんじゃなかろうか。「僕の人生には事件が起きない」でも思ったけど。

 

松田青子『男の子になりたかった女の子になりたかった女の子』

「ゼリーのエース(feat.「細雪」&「台所太平記」)」「向かい合わせの二つの部屋」が特に好き。「ゼリーのエース」は世間が求める「大人」にみんながみんななる必要はないんだなと思える。成熟と馴致の違い。「向かい合わせの二つの部屋」は、自分も長く団地に住んでいるので生活の点ではリアルではあったんだけど、実際は隣は何をする人ぞ……感がもっと強いので、リアリティと虚構の入り混じりが絶妙で面白かった。誰かと同居することって「生活の全てを構成員一人の意見だけで決定できなくなる」ことでもあるもんな、とも思った。それが心地良い人もいれば息苦しい人もいるけど、互いに息苦しくならないボーダーラインって一定のものじゃないから難しい。

「『物語』」。人を特定の枠に押し込める「物語」はどこにでも潜んでいて、この話では男女の社会的役割、ポジションに関する「物語」に抵抗する人々の話だったからそうだそうだと読めたけれど、もしこれが国籍、民族、性的・恋愛的指向、年齢、学歴、経験、病気・障害などほかの「物語」だったとしたら……と思うと自分も「物語」を内面化してしまって捉われから脱出できていないのでは?と感じた。色眼鏡を補正するためにはこうやって一気に揺さぶってぶち壊してくる存在が必要。

https://co-coco.jp/series/study/ariokawauchi_masayukikinoto/

この記事も思い出す。

「誰のものでもない帽子」や「斧語り」など、新型コロナウイルス流行後の世界を扱った小説は初めて読んだので、今後この世界がどのように描かれるかは見ておきたいと思う。

 

村田沙耶香『消滅世界』

なんで人が生殖にこだわるかわからん側の人間(子供は好き)なので後半にかけて(雨音が感じる違和感とは別の意味で)どんどん薄気味悪くなっていった……。

世界設定⬇️

☆人工授精で妊娠する「さらに高等な動物になった」

☆人工子宮の研究が進んでいる(男性や生理の終わった女性も妊娠できる可能性を追求している)

☆恋愛はアニメなどの「キャラ」にするもの(ヒトと一生恋愛しない人も珍しくない)

☆性欲処理は原則マスターベーション、まれにセックスもするが年々減っている

☆夫婦関係を結んでも双方別の恋人を作って良いとされている

☆実験都市ではコミュニティ内の大人全員が「おかあさん」としてみんなが生まれた子供の面倒を見て愛情を注ぐ(「家族」システムの消滅)(可愛がるだけ可愛がって責任が有耶無耶になっている)

「ヒトと恋をして繁殖する必要がなくなったから、性欲処理のためにたくさんのキャラクターが生み出されてるのよ。私たちの欲望を処理するための消耗品じゃない。」

ここ、二次元のオタクとしては自分がキャラに向けてる尊敬、友愛、感謝、いろいろな気持ちを全部「恋愛」「性愛」にすり替えられた感じがして窮屈さにゾワっとしちゃった。

「ヒトとの恋愛は、うっかりするとすぐにマニュアルじみてしまう。(中略)ヒトではないものとの恋は、工夫することから始まる。」ここで数多の二次元ガチ恋・リアコオタクたちの走馬灯が流れていったのは内緒な!

この世界ってアニメや漫画や小説など「キャラ」作りに携わる人が実質性産業みたいな扱いになってるんですかね。

水人が言ってたことは色々私も思うことがある。

「たまに思うんだけど、性欲って、俺らの身体の中に本当にあるのかな」

「テレビや漫画からいつの間にか性欲や恋愛感情の『種』を体内に植え付けられて、それが身体の中で育ってるだけじゃないのかなーって思うこと、あるよ」

これすっごい気になっちゃうんだよな。ここで言う『種』に触れてきても恋愛感情や性欲を抱かない人もいる分、余計に何なんだ!?ってなる。

実験都市では完全に大人がみんな「子供ちゃん」を育てる「おかあさん」になってて、次世代の子供たちを産み育てるためだけに存在してるような感じがした。反出生主義ではないけど、「命を繋ぐ」って言葉にはどれほどの価値があるんだろう?って疑問には思ってしまう。あと恋愛も家族制度もなくなった世界でも子供を育てる役目の名称が「おかあさん」なの、キツいな……

たしかボクらの時代でもぐらも「子供は自分の子だけじゃなくて社会の子なんだから」みたいなことを言ってたな。それはわかるんだけど、「自分の子」要素を完全に排除するとこんなにゾッとするもんなのか……

とにかく読み進むにつれて気味の悪さを感じて、でも読む手が止まらない一冊だった。最後雨音と実験都市ではおそらく初めてのセックスをした「子供ちゃん」はどうなるんだろう。

今は「逆に法制度としての『結婚』がなくなったらこの世界どうなるんだろう?」ってことが疑問として湧いてきてる。もしもボックスが欲しい。

 

加藤幹郎荒木飛呂彦論』

漫画を構成する「ストーリー」「絵(美術)」の両方の表象に触れながら独自性を指摘する一冊。バトルの主力が波紋からスタンドに変わった3部以降でも「DIOとジョナサンの結合によってスタンド能力が開花、それがジョースター家に広がる」=波紋、各部でよく出てくる水の表現=波紋、生と死のサイクルの広がり=波紋と、「波紋」的な表象が終わらないことによって、各部で独立したストーリーを展開しながらも繋がりを保っている説に関しては目から鱗だった。

ジョジョジョースター家の広く長い血縁関係を主軸にした物語でありながらも血縁神話、家族神話的な悪いところを感じないのは、親子関係の多様性による(父のDIOをほとんど知らないジョルノが血縁や権威に依存しない共同体のメンバーになる、ディアボロが娘のトリッシュを殺そうとする、ジョセフが不倫して生まれた子供が仗助、承太郎と徐倫は長い間会っていないなど)によるものだと思っていたけれど、「それゆえ、本作は『善人』たる主人公たちの単純な血縁関係による物語になることはありません。親から子へ、孫から曾孫へといたる各パートの主人公たちは、血統的遺伝(「波紋/幽波紋」)能力にもとづく『正義』の人生を強調することはありません。むしろ、各パートにおける特異な『最大最悪の敵』との葛藤をつうじて、それぞれ独自の自律的精神性の展開にいたるのです。」と言われて、スッと納得が行った。仗助や徐倫の成長が特にわかりやすい。

岸辺露伴という人物の特殊なポジション(主人公仗助の敵でも味方でもない、「動かない」での怪異に干渉しても倒そうとはしないことによって善悪をねじ曲げる)あたりは結構身に覚えがあるんだけど、「岸辺」に「露」が「伴う」のは(↑の)波紋的表象から見ると当然のこと、とまで書かれてるのはかなり強引にも思えて笑っちゃった。でもあり得なくはなさそうなのがまた……

まだ6部途中で6部DIOへの理解が追いついてないんだけど、ここを知ったらもっとジョジョが面白くなりそうな感じはした。

「二重人格(≠光と影、表と裏、善と悪)のドッピオ(=ディアボロ)も殺人衝動を抑えられない吉良吉影もある意味人格障害」(意訳)ではあるんだけど、それを「可哀想」と読者に思わせないのも独自性強いところだと思う。善悪二元論を捻じ曲げてはいるけど同情ベースに持っていかない。

「権威的制度にもとづく集団戦争ではない、個人間の世界概念にもとづく非善悪二元論的な葛藤友愛物語となるのです。」まあこれがいいまとめだよね。ジョジョのオタクと平成ライダーのオタクって(同心円ではないとはいえ)だいぶベン図書くと被ってる印象があるんだけどこうやって言語化されるとやっぱり近いところにある気がする。

ちらっと出てきた「ストーン・フリーはハーミットパープルとスタープラチナのいいとこ取り説」も盲点だった。茨⇄糸の伸縮性と強烈なパンチ。

あとジョジョに直接関係ない短編集はノーマークだったから読みたいな。許斐先生の「COOL」はテニプリに繋がるエッセンスをたどりたくて読んだことだし。

昨今は「公式の言うことが絶対」って水戸黄門の印籠みたいに使う風潮が強まってきてるからこの手の本みたいな視点大事ですね。読者の自由な発想や分析は(それが的外れだったとしても、こじつけに見えたとしても)封じ込められるものであってはいけないと思った。

 

柚木麻子『BUTTER』

 

連続殺人犯の梶井は自分自身が世間に振り回されずに奔放に楽しみながらも、あくまで「女の使命」として男を楽しませるエンターテイナーに徹し、それを怠る女性は徹底的に卑下する……という一見矛盾を孕んだ女性なんだけど、それは結局与えられたルールからはみ出ること、ギブアンドテイクの関係を破ってしまうのが怖いからなんだ……という落とし込み方は観察眼の冴え渡り方に感動した。ふつうここまで辿り着けないよ。梶井を理解ししていく過程で魅力に心惹かれ→友達になりかける→と思いきや最後の最後に裏切られ、破滅しかける→自分を守り、大切にする手段をもうわかっていたので自分自身を救うことができた っていう流れにも血が通っているように思える。自分のため、誰かのために時間をかけて料理を振る舞うことは確かに愛情をかけることと言えるかもしれないけれど、手間ひまかけて作った料理そのものが愛情というわけではないんだよな。愛情を伝える手段のうちの一つとは言えるかもしれないけれど、絶対的なものではないし、料理は時間をかけて作り出された結果に過ぎない。それを見誤ると、性別関係なく「家庭的」とか「手作りこそ愛」っていう幻想に縛られる。

セルフネグレクトという言葉が普及しつつあるけど、自分を粗末にすること、他者は自分のことを大切に思っていないと思うことが他者に対する暴力っていうのは、まあそうだよな。この世界に一人でも自分を大切に思ってる人がいると思えるかで明暗が変わることって案外よくあることなのかも。 (これは空気階段『anna』とかもそう)

この本では長い時間をかけた人間関係の修復がそこかしこで出てくる。「『いつか』を信じることは、弱いことでもおろかなことでも逃げでもないのに。」という言葉が象徴的で、つい瞬間瞬間の言葉の応酬、感情のギヴアンドテイクに気を取られがちになった時支えてくれるような気がした。

誰かに見た目、スペック、人柄、なんでもジャッジされてるように感じてしまうからこそ自分の中で一本芯が通った規範とか、肯定してあげる気持ちとかが育てられたらそれが最高なんだけど、なかなか環境によるところもあるな……里佳は少しずつ自分をそういう風に育てていって、最終的にはその気持ちを育てられる側の人にもなったけど。

そして作中に出てくる料理がどれもこれも美味しそう。塩バターラーメン、カトルカール、ルウではなくソースから手作りのシチュー……

本筋にあんまり関係ないんだけどここが一番共感できた。

「関わりたくない相手を無意識のうちに欲情させていたと知れば怖気が走り、自己嫌悪に打ちのめされる。でも、自分の意志でこれぞと狙い定めた相手に働きかけたものであれば、それは少しも里佳の存在をおとしめない。」

 

ところでスクリームの恵ってのはズッキがモデルなのだろうか。卒業時期も作中とほぼ一致するし参加したラストシングルがディスコファンクってのも泡沫?

 

kemio『ウチら棺桶まで永遠のランウェイ』

何事も経験、好きなことは継続してナンボだと思った。スルスル読めるし「飲める本」って前書きって言ってるだけあった。ラッキーばっかりに思える奴もなんかムカつくやつも悩み苦しみが違うだけでなんかと戦ってるのは同じって思えたらもっと肩の力抜いて生きられるのかもね。

「性格なんて気圧でも変わるし『性格がいい』って概念、いらなくない?そんなの自分の意識でなんとかできる範囲」

 

がどっかで探してた言葉過ぎた。

 

恩田陸『麦の海に沈む果実』

明るくない学生の話って本当に面白い!!𝑪𝑨𝑵𝑴𝑨𝑲𝑬 𝑻𝑶𝑲𝒀𝑶!!

中高時代のあの独特な閉塞感ってなんだったんだろうなと思ったら、お前、そういうことだったのかーー!!!と終盤で一気に畳み掛けてくる。事実と嘘の境界線があやふやになっていく感じがゾクゾクした。校長が二重人格かもしれんと思ってたけど全然そんなことはなかった。ホワイトスネイクで夢を見せられながらドロドロに溶かされてる時の承太郎と徐倫みたいな……あの学校には理瀬や麗子も含めて他にも校長の子供がいるってことでいいんですかね。

 

品田遊『名称未設定ファイル』

オモコロのヲタクなのにそういえば読んでない!と思って。インターネットやコンピュータにまつわる短編集。1段組と2段組、縦書きと横書きが入り混じる構成や袋とじページで「本」を読む楽しさが倍増した。フィクションでも現実と同じような構造が見られる話(「猫を持ち上げるな」)、この後どうなったのか明示せず想像力が掻き立てられる話(「この商品を買っている人が買っている商品を買っている人は」「最後の1日」)、「あるある」と「ないない」の行き来(「カステラ」「みちるちゃんの呪い」「亀ヶ谷典久の動向を見守るスレpart2836」「有名人」)全体を通してのインターネットやコンピュータと生身の人間の身体性の葛藤……

現実には存在しないシステムでも社会構造や人間の思考回路は現実とほぼ同じで、システムを通して人間が見えてくるSFが好きなのでそういう話が読めて嬉しい。

一番好きなのは「天才小説家・北見山修介の秘密」。2段オチの話、好き。小説だと共著、分業が考えにくいのなんでなんだろうね。

 

村田沙耶香『丸の内魔法少女ラクリーナ』

短編集なぶん「消滅世界」よりライトにサクッと読めるけど、本質は全く変わってない!時代に伴って人が「変容」していくことは「アップデート」「より良くなること」だと言い切れるのか?「多様性」「平等」「やさしさ」を重視し過ぎるあまり全体主義に陥り、かえって個性や自由が消えてしまう世界が「無性教室」「変容」で特に描かれていたと思う。「無性教室」はここから何か始まりそうな終わり方だったけど(「消滅世界」もどちらかといえばまだ何か希望がありそうなエンディング)「変容」には読者が予想しているであろう希望が見えてこない終わり方だったことに2010年代中盤〜後半で考え方が大きく変わってしまったことを感じる……。初恋の焼却は自分にも心当たりがあるので「秘密の花園」が一番好き。表題作「丸の内魔法少女ラクリーナ」はバッタヤミーが脳裏をよぎる。

 

壁井ユカコ『サマーサイダー』(再)

地方都市の閉塞感、行き場のないモヤモヤを抱えた屈折した少年(大切な人のためにはがむしゃらになる)と鋭さと鈍感さを併せ持つ思春期の少女、日常の中に紛れ込む異常、「蝉」のグロテスクさや三浦が倉田に触れるときの艶かしさ……久々に読んだけど好きな要素だらけだな。学生3人にせよ千比呂にせよ、いろんな感情が遮断されて理性だけが残ってるのが狂気なんじゃないかと思う。綿矢りさの「ひらいて」とかもそうなんだけどあんまり明るくない学生の話が好き。

 

中島岳士『思いがけず利他』

「利他」とは「何か不可抗力に動かされるようについやってしまう」もの、「偶然性を持つ」もの、「受け手が『利他』と感じてはじめて作用する」もの、それゆえに「時間が経って作用することもある」ものという話。(先代)立川談志は落語に「業」の肯定(=人間の不完全性を認める)の要素があると論じたけどこれは空気階段のラジオやコント見てても思うこと。

浄土真宗ヒンディー語特有の言い回し、土井善晴と民芸など色々な知識が出てくるが逐一丁寧な説明が入っててわかりやすい。

「自力に溺れている者は、他力(仏力)に開かれません。自分の力を過信し、自分を善人だと思っている人間は、『自力』によって何でもできると思いがちです。一方、『自力』の限界を見つめ、自分がどうしようもない人間だと自覚する人間には、自己に対する反省的契機が存在します。この契機こそが、他力の瞬間です。」

ヒンディー語特有の表現の「言葉が私にやって来て留まっている」っていうの、面白い。言葉は自分で生み出したものではなくて先祖が作ってきた文化、もっと突き詰めると神から人間に授けられたものだかららしい。そこが土井善晴先生の「『おいしさ』はやって来るものであり、『ご褒美』である」とも繋げられる。

利他と利己の切り離せない関係は、自分がボランティアに誘われた時にいつも思っていたことなので論じられててよかった。「行ってしまう気持ち」なんてのが自分にどれだけあるんだろうか。

「利他」に相反する概念として自己責任論がある。それを考えるにあたって、「自分という存在の偶然性」を考えるというのは大事だと思った。「もしかしたら自分が相手の立場で、自分がここにいなかったかもしれない」。「何かボタンのかけ違いがあれば自分はここにいないかもしれない」を突き詰めると結局自分の父、母、祖父、祖母……と血脈を辿ることにもなる。おじーちゃんおじーちゃんおじーちゃんおじーちゃんおじーちゃんおじーちゃんひいじいちゃん🎶(四天王/MAPA)

偶然性や運の軽視が自分への過信につながるというか、この辺は「自分で身の回りのことを何でもコントロールすべき」っていう理性崇拝への批判でもあるね。

偶然と運命はよくセットで語られるからその辺はどう思ってるんだろう?と思ったら「偶然性に伴う驚きを飼い慣らすようになる(何度も「偶然」の出来事に遭遇する)と運命と感じ、自分に与えられたものとして引き受ける」ようになるらしい。ほえー……

そうした偶然を呼び込むには自力を尽くして限界を自覚するのが重要ということで、「自力を尽くす」ができたとしても「限界を自覚する」の難しくないですか?

 

ケイン樹里安、上原健太郎『ふれる社会学

これは一年の時に読んでおきたかった!「起源、ルーツだけを見るのではなくて今に至るまでにどのような過程、ルートがあったのかを見る」が社会学に共通する考え方ってのは今はそりゃそうだって思えるけど社会学に足突っ込む前にこの前提があるかないかで飲み込みの速さがかなり違うと思う。あと唐突に(非西洋のルーツをもつ「ハーフ」で活躍してる人の代表として)莉佳子の名前が挙がっててビビったけど、アンジ「ェ」ルムになっとる!!!!!正誤表があるならそこも訂正しといてくれよ!!!!

公式サイトでも補足説明やおまけが豊富で嬉しい。個人的には「日中ハーフ」の事例で見られるような「民族、性別、障害など自分の意思でなかなか変えられないアイデンティティ要素に基づく自虐」が一番気になった。