新緑ノスタルジア

生きていくのがVERY楽しい

四半期オタク報告書(202201~03)

ざっくり見たもの・読んだものに関してピックアップして書きます。今年から個人的に日記を書いているので、その中からダイジェストで引っ張り出しているものが大半です。そのため文章の繋がりがごちゃついていたりしますのでご容赦ください。あとところどころ口が悪い。

それにしても1月から3月はあっという間ですね。

見たもの(映像コンテンツ)

ジョジョの奇妙な冒険(アニメ1~6部)

厳密には年末の休みに入る少し前から見始めてた。日記を読み返すと年明けの時点で4部に突入していたっぽい。まず見るまでに至った経緯を説明すると

・ドラマ版「岸辺露伴は動かない」を2020年から楽しんで観ていた(テレビに出てたら見るぐらいにはうっすら高橋一生が好きなので)

テニプリの推し・芥川慈郎のテニス以外の特技は「ジョジョのスタンドを全部言える」

・ZOCに新メンバー・吉良乃ジョナちゃん加入

・友人(現・恋人)が熱烈なジョジョのオタク

・タイムラインに流れてきたアニメ予告の徐倫に一目惚れ

以上複数の流れがあった。

これこそ「人間賛歌」と心で理解しましたね……とりあえず暫定推しは
1部→SPW
2部→シーザー
3部→ポルナレフ(もちろん5部ナレフも好き)
4部→康一くん
5部→トリッシュナランチャは孫)

6部→徐倫、F・F

ドラマ「恋せぬふたり」

見たうえでのポジティブな感想は概ねここで書いたんですが↓

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それに加えて最終話まで見たうえでの感想としては、親子や兄弟姉妹は離れてようが家族のままでい続けられるし、家族(仮)も離れてようが家族(仮)のままい続けてもいいんだな……と思えた。血縁や生殖を前提とした異性でないなら「同居」しか家族の証はないのかと思ってたけどそれも思い込みだったのだ。

放送終了後賛否どちらの意見、感想も目にして、改めて自分の中に内面化してしまっている差別意識・偏見と向き合うことになった。高橋と咲子の性別が逆だったらこの関係はどうなっていただろう……?とか。ただ、このドラマが自分の中の「当たり前」をほぐしてくれたことは紛れもない事実なので、その気持ちを忘れず向き合い続けたいと思う。

男性ブランココントライブ「ヘッジホッグホッジグッヘ」

特に2本目(小うどん)、3本目(スンドゥブ)、5本目(兄弟)が良かった。この2人のコントはありふれた日常の中でキャラ二人がお互い積み重ねる違和感を「ワードセンス」という形で炸裂させている気がする。引っかかるフレーズをいい感じの場所に配置するのがうまい。エコの観点→エゴの観点→おこの観点とか。小うどん↔︎大うどんとか。単体だと「偽笑い」が好き。配信限定のおまけもあって嬉しい。「変身東京ウミウシ」も配信で見るつもりだったけど普通に見逃しました。「しょんぼりサーベルタイガー学園前」は絶対見る。こんなにハイペースに新作を作り続けられるのはすごい。

堂島孝平さんバースデーイベント

すっかりアンジュルム界隈ではお馴染みの人になり、ついに楽曲提供もかなった堂島孝平さんのバースデーイベントも見た。

1部も2部も最初から最後までしっかりエンターテイナーだった!アンジュルム経由で知った人ではあるけど、すっかり堂島さんの楽曲、人となりのファンになりつつある。1部の「果実」「スプリング☆スプリンガー」が特に良かった。2部では中学1年のときに作った詞に即興で曲をつけて歌っていたんだけど、「若気の至り」を「若気の至り」のままにしてないのがなんかよかった。新曲アルバムも楽しみ!

この日に両部で「いとしの第三惑星」が歌われたことを忘れないでいたい。

ミュージカル「新テニスの王子様

待ちわびた新テニミュ2弾!!これは別記事で感想書きます。とにかく迫力や凄味を感じて、1st~3rdのテニミュとも4thテニミュとも違った面白さでした。

空気階段第5回単独公演「fart」

面白かった!バカみたいに笑って面白かった……けど、正直「anna」越えではなかったな……と冷静になって思う。「anna」は笑いとじんわり暖かくなる気持ちが同時に来ることが多いタイプの笑い、「fart」はバカみたいに笑った後にぬくもりが後からやってくるタイプの笑いなので比較は難しいが……。「baby」「anna」に関しては↓で書いたけど、

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この2本とKOC優勝を経てどこへ行くのか?どうしたいか?がまだはっきりと見えてこないところはあった。こっちが真新しい何かを期待し過ぎたのかもしれないが。新作ライブが復活するみたいなのでそれでどんな風になっていくか見ていきたいと思います。

アニメ「平家物語

heike-anime.asmik-ace.co.jp

善悪両方併せ持つ生きた人間としての平家と源氏。成人男性たちの権力争いに無慈悲に巻き込まれていく女性や子供。それらをありのまま語り継ごうと決意するびわ。「儚い」はなんとなくわかっても「滅びゆくことの美学」と「その先も何事もなかったかのように続く日常」がわからなかった自分にそれを教えてくれたと思う。

読んだもの(漫画以外)

雪舟えま「恋シタイヨウ系」

一つのカップルの過去/未来/パラレルワールドという形で太陽系を巡る物語。ほのぼのSFロマンス。何度も何度も違う年齢・立場・性別・種族で出会う2人は全然違う生活を辿るんだけど、自然と共通項が浮かび上がってきたときの嬉しさったらない。Twitterのオタクが「百合とSFは相性いいけどBLとSFはいまいち」って言ってるの見かけたことあるんだけどこれ読んだ後なら堂々と嘘つけボケって言えるね。

平子祐希「今日も嫁を口説こうか」

この生活は自分には真似できない(し、多分彼のようなことを実践するタイプの人は私をパートナーに選ばないと思う)と思いながらも、違う文化として面白いな〜と思いながら読んだ。家事分担に対する持論とか。「平子る」とそうじゃない所の間をチラ見させてもらってる感覚になった。

森見登美彦「夜行」

「曙光」と「夜行」という同じ作者の連作がつなぐ昼・夜の二つの世界の物語。1-4章までは旅先での奇妙な出来事の語り形式なんだけど、そこで起きた怪奇現象が明確な解決を迎えないまま終わる、その「スッキリしない感じ」がかえって魅力になっていたと思う。最終章も「実は『夜行』の世界と『曙光』の世界があって二つの世界は違うルートを辿っている」っていうオチは驚きがあるけれど、「どこかにそういうもう一つの世界がある」という事実を知っただけで、最初から話題になっていた長谷川さんの失踪が解決するわけではない。だからこそ現実世界と地続きになった奇妙さがこの作品にはあるのだと思った。森見登美彦作品読んでると京都行きたくなるね。今回色んな場所が出てくるけど結局この人の作品で描かれる「場所」で一番生き生きしてるのは京都だと思う。

雪舟えま「緑と盾 ハイスクール・デイズ」

時系列的にこの話の未来にある「恋シタイヨウ系」を先に読んでたのでこんな3ヶ月と少しで出会い〜結ばれるに至ってるのかとちょっとびっくりした。緑が盾を好きになるのがすごく唐突だけど現実の恋愛も気付いたら好きになってるもんだしよくわからん組み合わせで付き合ってたりするもんだしなと思いながら読んだ。でもなんで舞台設定が未来の日本なんだろう。そこだけ引っかかった。

緑が盾を頑張って下の名前で呼ぼうとするところが1番よかった。ここが実質セックスみたいなもんだろ(暴論)

「ほんとうはおれは、大きな愛の流れの通過点なのではないか?」ここ結構好きなんだけど誰にでも愛し愛される経験があるって思考じゃないと出てこない言葉ではあるよな。

緑は機能不全家庭で育ったがその孤独が埋まるわけではなくむしろ恋することで新たな孤独が生まれ、盾は誰にも自分の奥底を踏み込ませないタイプの孤独感がある。2人にそれぞれ違う形の孤独があって、読んだ後に自分の孤独と向き合いたいと思えた。多分この2人は恋仲になれずとも(あるいは別れることになっても)出会えたことを記憶の底で大事に抱えて生きるんだろうな。そういう生き方のできる人たちだと思う。まあその後死ぬまで一緒なことが確定してるんですが……

みどたてのイメソンは「地球は今日も愛を育む/スマイレージ」ですね。

加納愛子「イルカも泳ぐわい。」

 

エッセイ、日記というよりは「加納さんが面白いと思ったことを文章という形式でちょっと覗かせてもらってる」感覚。日常と非日常の境界線が知らない間に曖昧になっていくのはAマッソの漫才にも通ずるものがあると感じた。番外編の短編小説「帰路酒」は私が好きな「世にも奇妙な物語」や「岸辺露伴は動かない」のような日常に「あるかもしれない」不思議の話で感覚がマッチした気がして嬉しかった。

石崎洋司「6年1組 黒魔女さんが通る!!」(1~10巻)

この作品については今現在最も俺くんを狂わせているため別記事に感想分けました。

lettucekunchansan.hatenablog.com

石崎洋司陰陽師東海寺迦楼羅の事件簿」(1~2巻)

かの「黒魔女さんが通る!!」シリーズの公式スピンオフ。

回向寺と祈祷寺の違い、祈祷寺は一般的な仏教だけではなく密教の秘術、陰陽道修験道、神仙道など利益になるものならどんな呪術でも使うって説明で陰陽師そのものに対する疑問にちょっと納得がいった。紫苑家とも繋がってるのね……(イラストだけ見ると小春は百合ちゃんの先祖に見えなくも無いが……これは微妙なライン)迦楼羅がいかに美少年であるかってのに何行、全体の何割使ってんだ?ってぐらい文字だけで顔の綺麗さが伝わってくる。ここのこだわりは石崎先生の強みだよね。(ギュービッドも逐一、くどいほどに色白美女なことが描かれている)こんなにガチガチにブロマンスで固めてきてるのに黒魔女シリーズの読者は「彼らがくっつくことは絶対にありえない」って分かった上で読むんだよな。これはこれで……!

あと出てくる怪異のグロテスクさ、不気味さが黒魔女さん本編とは段違いだった。これが黒魔女さん本編と地続きの世界と思うとちょっと震える。人体自然発火で骨も残らず焼け落ちてるのに足だけ燃えずに残ってる……とか描写がかなりリアル。「WW2期、旧日本軍の中にガス兵器、生物兵器を極秘で作る部隊があってその中には霊力を使った心霊武器開発の部門もあった……」とかもかなり生々しいオカルトだし、「霊力を使えば霊力も記憶も奪って廃人にできる」設定もエグいが、要所要所で黒魔女さんの流れを感じるから不思議。(あっちにも馬鹿馬鹿しい効力の魔法が多い中に黒死呪文とかあるわけだし)

本編は魔女だから西洋呪術メインだけどこっちは東洋呪術がメインでそれも新鮮。

迦楼羅さん、知的好奇心の塊で陰陽師らしからぬ行動力で動いて解決していくスタンス。人生の相棒と言っても過言では無い双子の妹の不在を(無意識に)豪太郎で埋めようとしてて、挙げ句の果てに2人の出会いを「シンクロニシティ」って定義しちゃうのウワア〜〜って感じだ。豪太郎も豪太郎で「迦楼羅さんとおれは一心同体なんだ。」とか言うからさー……寂しいから手繋いで寝てくれって言う所エロくないか……??🤔

福来友吉とか京大光線含めた日本国内の超能力論争周りの話は全然知らなかったので調べながら読んだんだけど100年ぐらい前までは物理学や心理学を使って本気で超能力を研究しようとしてたこと自体が面白いなと思った。(1巻感想)

石崎先生は一つのテーマ(今回だとおそらく「死者と生きた人間の交流」)から縦横に知識を広げるのがうまい。多分子供の頃から調べ学習とか得意だったんだろうな……。黒魔女さん本編における鈴木薫さんの存在のありがたさを確認するよね。迦楼羅編は東洋呪術と近代文学中心にいろんな蘊蓄が出てくるのでいつも調べながら読んでる。

特に第四怪のトリックにはまんまと騙されました。序盤に自動筆記で迦楼羅が書いた「縁の下」って蠱毒と繋がってるの!?東海寺父がやったのか!?って思ったらまんまと騙されました。記憶を捏造するとか……予想できん。ロジカルなミステリーではあるけど超常現象も当たり前に起こる世界なのでこういうことがある。

今回もやってんな!と思うところあったので未来の自分のために抜き出しておきます

「ああ、やっぱり豪太郎さんです!ちゃんとおぼえていてくれたんですね!」迦楼羅が、花のような笑みを浮かべると、肩を寄せてきた。

 

ふりかえると、迦楼羅が鬼のような目つきで、おれをにらみつけている。

「怪しいですね、豪太郎さん!」

「え?い、いや、おれは、あんなやつ、なんとも思ってな……」

「お願いですから、わたしのそばから、絶対に離れないでくださいね!」

「わ、わかってるぜ。いままでだって、ずっと……」

(中略)

迦楼羅が、怪しいとか、離れるなといったのは、そういうことだったのだ。

─おれは、それを迦楼羅のやきもちと誤解したりして……。

思い返しただけで、顔から火を吹きそうなほど、恥ずかしい。

 

本当に何?????????私がBL好きなのでそういうフィルターがかかってるのかもしれないが……本編の描写は言い逃れできないわよ……

第四怪の舞台が東京のはずれの田舎(1950年代時点)で、落合川があるということは今の黒魔女さんの舞台からそう遠くないんだろうけど、やっぱり第一小の校区は23区外のニュータウン(多摩〜八王子あたり)なんですかね。東京には明るくないので有識者の意見が知りたい。

あとこれは全然本筋には関係なくてむしろ黒魔女さん本編に関わる話だけど、紫苑家は旧財閥の大金持ちなら(今でもメグが毎日全身ハイブランドの服で学校に行ってるあたり財力は衰えてないことがうかがえる)小学校から私立に行かせる手段もあっただろうにあえて公立小学校に行かせたのはなんでだろう。 (2巻感想)

今のところ脳内妄想CVは

豪太郎…小野友樹

迦楼羅入野自由

妙子…高橋李依

小春…巽悠衣子

ですね。

柚木麻子「本屋さんのダイアナ

 

全体的に「男では耐えられない痛みでも 女なら耐えられます 強いから」って歌マスのフレーズ思い出しちゃうシーンが多かった。(耐える事をすべて肯定しているわけではない)ボタンのかけ違いで幼馴染や親子がすれ違ってしまう描写がリアルでソワソワしてしまう。
ティアラはダイアナにショックを与えたくなくて小6で性的な悪戯にあったこと、それがトラウマで誰にも話せなかったこと、男から自分を守るために金髪にしたこと、同じ理由でそれを娘にもさせてること、全部隠してるけど、それのせいで大きなすれ違いを産んでるのがしんどかった。しかもそれを(あくまでも他人の)彩子には話せてるってのも。その後もティアラが本音で話そうとすればするほどダイアナが遠ざかっていくので、誰かこの状況気付いて!!っていう。
あと彩子がヤリサーに巻き込まれて先輩にレイプされる描写も生々しくてキツかった。その後も先輩に合わせてしまう彩子も余計につらい。人が求めるものがすぐにわかっちゃうタイプの賢さってこういう風に自分自身を苦しめるよなあ……

「女の子ってやっぱいいよな。うん。自立したら、友達になれるんだもんね」

これでアンジュ卒業後のまろめいかな/あやタケりなのこと思い出した。じゃあ男って自立した先でどこに行くの?
武田くんが最終的にダイアナとも彩子ともくっつかないのも、ダイアナは一度は考えた改名を踏み留まってそのままの名前なのもよかった。(それでもHNにAYAって使っちゃうところが好き。本当に彩子との日々が大切なんだなと思う)
終盤の好きなフレーズ抜粋

「優れた少女小説は大人になって読み返しても、やっぱり面白いのだ。はっとり先生が言ったことは正しい。あの頃は共感できなかった心情が手にとるようにわかったり、気にも留めなかった脇役が俄然魅力を持って輝き出すこともある。新しい発見を得ることができるのと同時に、自らの成長に気づかされるのだ。」

「幼い頃はぐくまれた友情もまた、栞を挟んだところを開けば本を閉じた時の記憶と空気が蘇るように、いくつになっても取り戻せるのではないだろうか。何度でも読み返せる。何度でもやり直せる。何度でも出会える。再開と出発に世界中で一番ふさわしい場所だから、ダイアナは本屋さんが大好きなのだ。」

佐藤多佳子「明るい夜に出かけて」

なんの前情報もなしで読んだからアルピーのANNがこんなにがっつり話の根幹にかかわってくるの知らなくてびっくりした。ラジオが繋いだ縁ってことで「anna」を思い出したりもした。こういう緩やかだけど確実な繋がりって必要だよね。SNSも緩やかなつながりではあるけどそれともまた違う感じ。

「ただ、俺、二人で長い時間一緒にいて、イヤじゃない相手って、めったにいない。」

「色々。色々ある。色々あって、よくわかんない。色んなこと聞きたいし、話したい。いっぱい話したい」

決して特別で運命的ではなかったとしても、こういう出会いはある。その手助けになってくれるのが趣味なんだろうなと思った。そして、この話は人との繋がりを介してやりたいことを見つける話でもあると感じた。

「考えたことなかった。私が何か作る。他の人が、そこから、また何か作る。パクるんじゃなくて、ぜんぜん新しいものを作る」

特にこの台詞はアルピーのANNが大きく関わるこの作品で言うからこそ響く。共感や影響だけでは言い尽くせない。

この本きっかけでアルピーのラジオ聴き始めました。嘘と本当の境界線がぐにゃぐにゃになっていく感覚で脳汁出る。

せきしろ×又吉直樹「まさかジープで来るとは」

知らないはずの景色が奥行きを持って思い浮かんでくるのが(自由律)俳句の面白さだと思った。写真と俳句は似てる。

三浦しをん「きみはポラリス

いろいろな恋愛の形。その中で共通しているのはそれぞれの形で思いを「貫いている」所だと思う。あと若い頃の同性や年上の身近な人への恋心を「一時の気の迷い」で片付けようとしてない。特に好きなのは「夜にあふれるもの」「森を歩く」。神秘的なものに恍惚となる「信仰」に近い気持ち(私にとっては信仰そのものではない)と恋心はある程度重なる所があると思う。信仰の土台になる知識や理論を理解した上で……というより神秘体験そのものに焦がれているのが肝

「森を歩く」で好きなフレーズ抜粋しておきます

「捨松と森を歩くのも悪くない。捨松はいつか、植物を夢中になって追うあまり、今日みたいな崖から人知れず転落死してしまうかもしれないし、私は明日にも、車にはねられて死ぬかもしれない。この先どうなるかなんてだれにもわからないんだから、捨松と行けるところまでは一緒に、道もない森のなかを進んでみるのもいいだろう。」

「そうして捨松が見せた笑顔を、私はきっと、ずっと覚えているだろう。もしもいつか、私たちの心が遠く隔てられてしまう日が来ても、この笑顔はいつも私のどこかにあり、花が咲いて散って実をつけるみたいに完璧な調和のなかで、私の記憶を磨きつづけるのだ。」

しかしお題「王道」から死体埋めが出てくる三浦しをんェ……

あと危険日・安全日の概念を当たり前に使ってるのにちょっと時代感じてしまった

 

 

今後もこういう感じで四半期ごとにまとめて書けたらと思います。