最近江端妃咲さんがキテるからちょっと語らせてくれないか
このブログを読んでいるオタクたちはたぶん私をアンジュオタあるいは船木オタと認識していると思うのでどうした急に……と思っているかもしれませんが、最近江端妃咲さんが熱いです。
(一応誤解のないように補足しておきますと、理由は長くなるので割愛しますが私のスタンスとして「活動休止中・引退済みの人を『推し』と公表しない」というのを立てています。推し増しであっても推し変ではないのです……)
きっかけ
えば熱を上げるきっかけになったのはなんだったか……と自分のツイートをさかのぼったところ、最初の言及はこれでした。
江端妃咲ちゃん、だんだん顔つきがふなちゃんに似てきたよね 2017-18年頃の顔っぽく見える(2021/4/23のツイートより)
おそらくハロドリか研修生アカウントを見ての言及だと思います。当初はふなちゃんの卒業から半年も経っておらず、無意識に彼女の影を追っていたのかもしれません(オタクのOne more time, One more chance)。現にTwitterでもふなオタからえばオタに流れたオタクは一定数いるようです……
そして2021年7月7日*1にもこのような言及をしています。
江端ちゃんにはアンジュースのどっちかに入ってほしいが、さてどうなる……
この段階でかなり気にしていることがわかります。
アンジュオタである以上自分が気になっている子がアンジュ流の手荒い()もてなしを受けることを望むのは当然のことですし、佳林ちゃんの卒業、紗友希の脱退でオリメンがごっそり減ってバタバタしていたJuiceに半ば判官贔屓のような気持ち*2から応援したい気持ちが湧いていたのだと思います。
しかしそこから言及が減り*3、次のツイートはほぼ1年後。
江端妃咲ちゃんの顔を見るたびにポケモンの電気ネズミ族が脳裏をよぎるんだよね(2022年6月1日)
さらにそのおよそ1か月半後に
このブログの↓の発言を受けて
見ていたアニメをほとんど見終わったので今から
ジョジョの奇妙な冒険をシーズン1から見直してきます
俺様も見直しちゃおうかな🎶とツイートしていました*4。結局私は見直してません。
このあたりで江端さんがジョジョのオタクだと気づき、そこからdigるようになっていきます。
そして8月1日……
←これはね、オタクがえばチャマのことを考えた時に地球のどこかで咲く花
え!?!?急ハンドル切りすぎ。
自分でもどういう経緯でこのツイートをしたか覚えていません。
それ以来、すっかり江端さんは「気になるハロメンのひとり」から「推し」になってしまったのです。
江端妃咲さんの好きなポイント①歌声
↑のソロ歌唱動画を見ていただくのがわかりやすいと思いますが、一音一音を立て、それでいて力んでいない歌い方はJuiceのほかのメンバーと被らない個性だと思っています。そのためインパクトある歌いだしを担当することも。
てらわないまっすぐな歌い方ですが、少しハスキーな成分も入っているように聞こえるのが面白いところです。特に「雨の中の口笛」は江端さんの歌いだしありきで作られたのかとすら思ってしまいます。
好きなポイント②悪ガキ感
美麗なビジュアル*5とは裏腹に中身が年相応に子供で可愛いです。
ジョジョの5部に登場するキャラクター・ブチャラティのコスプレをしたり
4部に登場するスタンド*6、キラークイーンの「ジョジョ立ち」を披露したりそこはかとなく中二病のオーラが漂います。
あとこれはソースがリミスタの配信なので原典がもう見られないのが残念なんですが、先輩の松永里愛さんとの配信で
・マネージャーさんには「コンビニに行ってくる」と言って二人でラーメンを食べに行った
・「松永さんは闇落ち感がある(からかっこいい)」(要約)
・好きな言葉は「黄金の精神」*7
などのエピソードを披露していて、大ニヤつきオタクスマイルで見ていました……
松永さんとのエピソードが特に豊富で、↓のブログからも様子がうかがえます
あ、ちなみにこれは松永さんの服です
私が好きな匂いは松永さんと井上さんです
だから毎日のように一緒にいられて幸せなのです
↑ギャッ!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!(関係性オタクの断末魔)
さらに工藤由愛さんとのエピソードとして↓のようなものもあります。
先輩相手でも臆せずにこのような絡み方ができるのが彼女らしいところだと思います。
同期の有澤一華さんからはこんなタレコミも。
えばが、コンサート終わりにビビンバ弁当を食べよう〜と狙っていたんですけど
ライブが終わった時には、もう一種類のお弁当しか残ってなくて
"えばのビビンバがなあああああいいいいい"と今にも泣きそうな顔で嘆いていたんです
可愛すぎる
ブログのサムネイルにも出ている写真が、その「今にも泣きそうな顔」です。ほんとに泣いちゃう。
その後ビビンバ弁当はビヨの西田汐里さんが持ってきてくれたらしく、江端さんの笑顔は無事守られたようです……。
以上、先輩や同期との交流から江端さんの悪ガキ感を見てきましたが、植村リーダー体制のJuiceの姉妹のような空気、「イニミニマニモ~恋のライバル宣言~」のようなかわいらしいコンセプトを作った要因の一つに、彼女のこういった振る舞いもあると思います。*8そういう意味でJuice箱推しオタクも彼女に注目する価値があると思っています。
そうして挙句の果てには植村リーダーにこんなことまで言われてしまいました……
犬っぽいでしょ
最近このこハウスを覚えました
普段散々メンバーやオタクからも「大型犬っぽい」と言われている植村さんからもこう言われているのは相当です。
まとめ
そういうわけで、今江端妃咲さんがアツい!という話でした。注目するきっかけこそふなちゃんを彷彿とさせるビジュアルではありましたが、それとは関係なく一人のアイドルとしての彼女を見て、素敵だと思うポイントを書いたつもりです。
最後に。事務所に一つ要望があるとするなら、鈴ちゃんとの悪ガキ・ジョジョオタコンビを見せてくれれば嬉しいです……
ファミ通やアップトゥボーイのグラビアでもいいしオマケチャンネルでのジョジョ座談会(はろあにが死んでいなければ……)とかでもいいので……何卒……
*1:のちに3flower、リトキャメと呼ばれるJuice=Juice、つばきファクトリー新メンバー加入発表がYouTubeで行われた日
*2:今となってはもはや心配の必要はなく、純粋に良いパフォーマンスやメンバーのキャラを楽しめています
*3:アンジュのほうでは桃奈卒業が迫ってきており、それどころではなかったのかもしれない
*4:ツイートしていなかった間にこのオタクはジョジョのアニメを1~5部まで見てハマっている
*5:重め前髪ぱっつん期はaespaのウィンターに似ているとも言われていた
*6:ジョジョ3部以降に登場する概念。超能力が人のような形で具現化したものだと思ってもらえればOK
*7:これまたジョジョのキーワード。正義の輝きの中にある精神のことで、困難に立ち向かう諦めない心や、弱者を守るやさしさ、自分の運命を受け入れて進む覚悟などなどを端的に表現したワードです
*8:もっと言うと、れいるるやいちさくのタメ口関係の構築、植村リーダーの放任主義もあると思いますが、江端さん個人の話からはズレるのでそれはまた別の話……
読んだ本(8~11月)
1~3月
lettucekunchansan.hatenablog.com
4月
lettucekunchansan.hatenablog.com
5月
lettucekunchansan.hatenablog.com
6~7月
lettucekunchansan.hatenablog.com
ジャンル雑多、ネタバレ配慮ゼロ、読んだ順
8月
「『テレビは見ない』というけれど エンタメコンテンツをフェミニズム・ジェンダーから読む」
誰かが批評しないと放置してる間にどんどん悪いものになっていくかもしれないってのは本当にそう。そのために批評がある。私は日本のエンタメにそんなに絶望することはないんじゃないですか〜と思ってるのでちゃんといい所も回収されててよかった。複数人から好評だった「チェリまほ」と「問題のあるレストラン」は観ます。悪ぶるため、イキるための露悪的な「本音のようなもの」じゃなくて本当に本来のマジレスとしての「本音」が求められる世の中なんだってことがわかりました。でもバラエティやドキュメンタリーはともかくドラマみたいなフィクションはリアル突き詰め過ぎるとしんどいんだよな。多少お花畑って言われても希望を持たせた方がエンパワメントにも繋がるってのは同意見です。elaboは海外エンタメに明るい人が多い一方日本のエンタメはそこまで……な感じがするので拾っていくポジションを担いたい。
あとは、BLドラマがどんどん出る一方で女性同士の恋愛、百合(あえて分けて表記する)のドラマがなかなか出てこないのはオタクとしてもアライとしてもつらいものが、ある……
杉田俊介「人志とたけし 芸能にとって『笑い』とはなにか」
ビートたけしは正直私よくわかってないので今こそ学ぶ必要がある人だなと。ここまで今も芸に貪欲な人だと知りませんでした……。松本人志は「善悪や美醜の価値観を全部まとめて引き摺り下ろして虚無(うんこちゃん)にする」ってまとめられてようやく彼に対する底のしれなさに対してひとつ何か見えたような気がします。そこが現在の反知性主義的なものと地続きって見方もできるのも、わかる。正直なんであそこまで持ち上げられてるのかわからないんだよね。(先輩芸人からの影響というよりインターネットの笑いからの影響もデカいって言ってるある若手芸人のツイートが脳裏をよぎったので、インターネットとお笑いに関する文献があれば知りたい……)あとはしばしば引用されてた鶴見俊輔の漫才論も読みたい。彼はあくまで笑いは大衆のパワーに起因するもので、大衆のパワーをポジティブなものとして見てたけど私はちょっと簡単に同意はできないので……でも身体性や一生懸命さによる偶発性による笑いに関してはわかるし、なんかモグライダーとか好きそうだなとか思ってしまって気になる。
芸能人が文化人になったら「あがり」説に関連して、ビートたけしと松本人志の共通項として「映画」の分析が出てたけど、これエッセイとか小説だったらもっとやってる人多いだろうしもっと幅のある分析になりそう。
西森路代さんとの若手芸人についての対談で出てきた「ゼロか100かで割切れない曖昧なものを描くときの両義性、危うさ」については蛙亭、ラランドの例がすごく納得いった。私はだからこそもっと見てたくなる。
「文芸批評はそれ自体が芸術であるべき」って話、私はあんまり納得いかないな……。
あとこの人「ジョジョ論」ってタイトルの本も出してるみたいなのでそっちも読まないとですね。
香月孝史「乃木坂46のドラマトゥルギー 演じる身体/フィクション/静かな成熟」
演劇に身を投じるアイドルということでハロオタなのでビヨや演劇女子部が脳裏をよぎる。比較してみたい。キャラ・役名/(芸名)/本名=プライベートの多層構造に関しては通じるものがあるはず。アイドルが役を演じることによってアイドルという概念やグループのあり方自体を問い直していくことはハロプロがやってる演劇女子部だと「スマイルファンタジー」「眠れる森のビヨ」がわかりやすいだろうか……乃木坂のメンバーたちはそういうスターシステムに依存しない演劇への道も切り開いてきているけど、「アイドルが役を演じる」ことで本人やアイドルそのものと重ね合わせる見方については変わらないのか……と感じた。それ自体の良し悪しはともかく。
乃木坂の、AKBが作ってきた10年代のアイドルにおける競争やパーソナリティすべてを話題の種化する風潮への躊躇い、違和感の表明が少しずつグループ全体のカラーを作ってきたがそれでも旧来のシステムから抜けきれない部分はどうしてもある、ってところは的確だと思った。生駒ちゃんはセンターになるのがずっと怖かったって話は初めて知ったので門外漢としては驚き。競争社会への違和感を提示しつつも抜けきれないところでその歪みが出てしまったのが欅坂なのかなと。オタクたちの大半がアイドル側の「静かな成熟」に気付けるならそれでいいんだけど、気付けないオタクが多い以上いくらアイドルが成熟しても/既存システムへの違和感を表明してもそれを受け止められる環境にないわけで、それじゃあオタクも変われないよね。
今の女性アイドルシステムの問題点として卒業がエイジズムに加担してしまってるところ(なにも皆が皆一定の年齢になったから卒業するわけじゃないけど、結成時点でハイティーンだったオリジナルメンバーは既に卒業を視野に入れながら活動してたって話はちょっとしんどいものがある)、恋愛禁止(=異性との性的な接触の禁止)による異性愛規範の再生産や女性への抑圧……ここはハローにも、ほかのあらゆる女性アイドルグループにも言える。既にいろんな人が指摘してることではあるけどこれはもうオタクがわーわー言ってるだけじゃ解決しなくて、業界の内側から問題提起して動かないと変わらない気もする。それこそ和田さんみたいな人とか。そういう人を支持することで間接的に協力するぐらいしか、オタクにできることはないような……
ブレイディみかこ「ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー」
知ることはいろいろな障壁やトラブルを乗り越えるのにすごく役立つし、無知より絶対いいんだけど、それだけじゃどうにもならないのが現実だよねと思う。特に「地雷だらけの多様性ワールド」で感じた。どれだけ知識があって相手の気持ちに寄り添う意志を持っていても、それでも傷つけてしまう・傷ついてしまうことはあって、そこにどれだけ自覚できるかも大事だと思う。でもエピソードに出てくる子供たちはみんな、日々全力で目の前のことにコミットして学んでいる途中だし、私自身も自分の人生において常にそうなんだと思えた。民族ナショナリズムと異なる地域ナショナリズムの概念は初めて聞いたけど、たしかにそういうのは自分にもあるなと思う。右派のナショナリズム崇拝にも左派のナショナリズム絶対反対にも馴染めないなあ。
エマノンは出会った人みんなにとって忘れられない存在になっていくことを改めて感じた一冊。特に「かりそめエマノン」は今まで読んだストーリーと少し違って双子で母親だからこその愛憎が率直に描かれていて、でも最後には使命の正体である愛情に気付くって終わり方が綺麗だったな……と思う。エマノンにある時男女の双子が生まれるって筋でどう転がるかあれこれ予想してたけどただ会いにいって会話するだけの話で終わらなくて嬉しい。毎度のことながらエマノン自体のスケールが大きいからこそ数十年の時間の経過を扱っても話の軸みたいなのがぶれないんだな。
山下泰平「『舞姫』の主人公をバンカラとアフリカ人がボコボコにする最高の小説の世界が明治に存在したので20万字くらいかけて紹介する本」
デジタルアーカイブの力ってすげー!が止まらない一冊。当時の人も真剣に取り合わず現代人もほとんど知らないこともこうやって閲覧して考える人が出てくるもんな。今の娯楽小説や漫画に繋がる要素も散見されるのが面白かった。なんだかんだ稲妻強盗とか海賊房次郎とかもゴカムのキャラの元ネタになってたりするんで徒花扱いされた犯罪実録にも意味があったんだな〜〜……。明治末期〜大正のオカルト・超能力ブームは個人的に興味があるのでもっと掘り下げたところも見たかった。
森見登美彦「四畳半タイムマシンブルース」
変わらない四畳半世界があって心が京都に飛んでゆく……明石さんこんなおもしれー女だったっけ?!ネジの緩み具合が加速してる気がする。中学生の私をアジカンや中村佑介先生に繋いでくれた作品でもあるのでもはや血肉になってるんだよね……今になってまた新作が読めるのがただただ嬉しい。声出して笑いながらの読書体験もなかなかない。小津は幸せにならなくともよい!!
この本に関してはここで色々話しました。
ボカロの家族イメージとつんく♂(ハロプロ)の家族イメージを比較しつつ、郊外のマイルドヤンキー的な価値観へのカウンターとしてのボカロという視点が見出せたのは我ながらいい着眼点だったのではと思っている。ボカロは私の思春期、人格形成期の記憶に深く結びついている曲が多すぎて、「二息歩行」や「ロストワンの号哭」なんかは聴くだけで涙が出てしまう。そんな楽曲群も投稿から何年も経ちボカロシーン自体が変わっていったのは肌で感じているけど、それでも自分の中でひとつの「帰る場所」みたいになっている体験が今も残っているのは嬉しいね。
杉田俊介「マジョリティ男性にとってまっとうさとは何か」
まっとうな人間であるためには常に自問自答し、他者への想像力を持つことが必要なんだけど、それを実現するための私の意見として、きわめてマッチョな考え方ではあると思うけど、「自分は今何を考え/感じているのか」「何を望み何を拒否するのか」を常に自覚することが大事なのではないだろうか。
「まっとうであるとは、複合差別状況の中でも、他者と自分に対する繊細な想像力を持ち続けられること、葛藤し続けられることです。」
「友人や同僚との会話の中で、誰かが『あいつは男らしくない』『あの子はおかしい』と嘲笑ったとき、そんなことはない、それは違うと口に出して言えること。あるいは、自分が傷つけられたときに、それを自己責任で片付けずに、痛いものは痛いんだ、おかしいものはおかしいんだ、と感じられること。主語の大きさ(『男』『日本人』)に逃げ込まずに、個人的な痛みを個人として実感できる、ということ。そんなものはおかしいんだ、と公然と主張できること。
人間としてのまっとうさ(decency)は、規範(norm)としての『普通』(normal)とも異なります。」
「重要なのは、社会問題を単なる文化の問題に切り詰めることなく、資本主義と経済体制の問題として(も)論じていくことです。」
入門向けに「ジェンダーって?クィアって?フェミニズムって何?」ってところから紐解いてくれてるのでこれから学びたい人(想定されたターゲットであるシスヘテロ男性だけではなく複合的に差別や抑圧が折り重なるなかでマジョリティ性を持ついろいろな人、かく言う私もシスジェンダーとして、日本に住む日本人としてのマジョリティ性から逃れられない)に薦めたい。
「マッドマックス 怒りのデス・ロード」「ズートピア」は観たいですね。あと「天気の子」ではセカイ系しながら社会批判してるって聞いたのでそっちも。
玉井建也「幼なじみ萌え ラブコメ恋愛文化史」
幼馴染に関する記述よりもむしろ、スクールカーストとラノベの中でのその表象、郊外・田舎にあるいつまでも都心と同じにはなれない隔たり(主に文化資本の面で)、「団地」のノスタルジーなどに興味が惹かれた。むしろそっちを本筋にして、学術エッセイ形式ではなくてもう少し硬めの学術書としても読みたかったなーという気持ちがある……
辻村深月「図書室で暮らしたい」
生まれてから今までに触れたたくさんの「好き」が自分を形成している。それは紙面の向こうの作家も同じ。libraryとlibertyは似ている。ピンドラとジョジョについての記述が読みたくて読んだようなもんだけどどちらもよかった。ピンドラは東日本大震災のあった2011年放送で1995年の地下鉄サリン事件が下敷きにあること、だからこそ「僕は君を愛している」という人の営為が響くこと、辻村さん世代は「きっと何者にもなれないお前たちに告ぐ」という言葉が実態を持った重みとして響く(多分)最後の世代であること……これは後追いの自分にはわからないな……と思う。青柳美帆子さんが映画を受けてツイートしてた内容でも思ったけど。
ジョジョの方はというと、ジョジョリオンの舞台は杜王町とわかった時の「かつてジョジョを本誌で追ってた人」の衝撃がすごかったというこれまた当時を知る人にしかわからない記述が……
「オーダーメイド殺人クラブ」のセルフ解説文で、人生で戻りたくない時期は中学時代とあって、壮絶な失恋やいじめがあったわけじゃないけど居心地の悪さみたいなのがずっとあった……とか「借り物の言葉を振り回して悦に入っていた」のも思いところがあり過ぎる……っていうあのザラつきは何なんだろうなと私もずっと思っている。私もそれを描ける人間になりたい。
わからない、荒唐無稽。だけど/だからこそもっと知りたくなって気付いたら引き込まれている。それが万城目学ワールドだった。デビュー作にはその作家の「全て」が詰まっていると言われているがデビュー作→ある程度期間が経った作品と続けて読んで実感できた。「あの子とQ」は買うか検討中。
ヒコロヒー「きれはし」
スルッと入ってくる喉越しのいい文章。「コリドー」、冗談半分から引くに引けなくなった人間って側から見るとめちゃくちゃ面白いんだな、、、
穂村弘・堀本裕樹「短歌と俳句の五十番勝負」
お題が毎回面白い。朝井リョウの「ゆとり」、鏡リュウジの「流れ」、牧師さんの「罪」みたいなその人のアイデンティティまんまをぶつけてくる人もいれば、又吉の「唾」とか女子小学生の「黒」とかそんなところ行くんだ!?って意外性、「放射能」や「共謀罪」みたいなそんな単語で作れるのか?みたいな単語まで、作風の違い、着想の違い、短歌と俳句の表現の違いなどが直球で伝わって楽しい。
特に好きなやつ。
喰らい合ふ夜食共謀罪めけり
夕焼に塗り込められてゆくこころ
(かわいいな)(かわいくないや)(かわいいじゃん)(かわいいのかな)転校生は
9月
壁井ユカコ「2.43 清陰高校男子バレー部」
長いこと積読にしてたけどこんな楽しみを置いてきた俺の偉さと愚かさ……章ごとに違うペアに着目して片割れから見た相方を描き続けてるのコンビ・CPのオタクとしては垂涎もの(固定派に優しいとも言う)。棺野くんと末森さんの関係が好き。この作品に末森さんがいることで外から見た男バレの空気がわかるし、「サマーサイダー」でも思ったんだけど壁井先生は「女子から見た男子」「男子集団への理想の押し付け・ないものねだり」の描写がうまい。文字媒体でこんなに白熱するバレーの試合が味わえるとは!
河野真太郎「戦う姫、働く少女」
ジェンダーと労働研究会「私たちの『戦う姫、働く少女』」
ポストフェミニズムは思想体系というより私たちの生きる「現状」と捉えた方が良いという考えは目から鱗。ポストフェミニズムと新自由主義の功罪を考えると「人間の生きがい」みたいな新自由主義の「功」の部分にもぶち当たることになるので、新自由主義そのものへの理解も進んだと思う。その生きがいみたいなのが労働にべったり張り付いてしまってること、すべてに「生産性」が求められること、お金を使って財・サービスを消費する行為がそのまま社会における投票行為に値することを考えると、今突然人類が滅んだりしない限り市場経済からは逃げられないので、うまいこと市場経済・資本主義が「自然」で自明なものではなくて人の手で作り上げられてきたことを理解して利用してやる必要がある、という大意に同意できた。でもそれ言うともっと「左」の人からお前は左翼じゃないって言われる葛藤もあるよね。わかる。
「私たちの〜」の方の参考コンテンツにラブライブ!の名前が挙げられてて、あれもポストフェミニズムの中での自己実現(スクールアイドルはあくまで部活的な活動の一環のためどうもギャラが発生してないっぽいのである種の感情労働の搾取と読み取れなくもない?)とその中での女子同士の連帯(特にアニメではほとんど女しかいない世界、シリーズの主人公たちの通う学校が共学だったら私はあのIPを真っ直ぐに受け止められなかったと思う)という視点で読み取れるし、ニジガクが究極の個人主義とライバルとしての競争関係を実現しながらも「同好会」というコミュニティのもとで連帯するバランス感覚を持っていたこともわかる……。それ考えるとアイマスはゴリゴリに新自由主義のノリだなと思いますね。アイドル活動=承認と自己実現、基本Pとアイドルの一対一関係で連帯要素が薄い(ただしユニットありきのSideM、シャニマスはこの限りではない)、とか。歌マスの歌詞なんかも象徴的だし何よりアケマスが出たのは小泉政権の時代だもんな……。オタクども〜〜二次元女子アイドルとポストフェミニズム/第三波フェミニズムの話しようぜ〜〜……
ゼミの個人研究にもこの視点は取り入れたい。女オタはなぜ女性(キャラも含む)を支持・応援・消費するのか、そこに連帯の可能性はあるのか、など……
壁井ユカコ「2.43 清陰高校男子バレー部 代表決定戦編」
最後の最後までどちらが勝つかわからない展開だったし、どちらにも勝ってほしい、負けてほしくないと思えた。今回は全部小田と越智に持っていかれました。みんなが今しかない時間を必死で全力疾走してる。三村人気だろうなと思ってサーチしたら案の定結構な人気でした……みんな好きよこりゃ
あと当たり前だけどバレーの試合描写って毎回ローテーションのことも頭に入れとかないといけないから他のスポーツ以上に大変そうですね……これはハイキュー(10thクロニクルによるとプロットには毎回ローテがメモされてたらしい)でも思ったけど
壁井ユカコ「空への助走 福蜂工業高校運動部」
なんで運動部??バレー部だけじゃなくて??と思ったけど、みんながみんな部活に一直線だからこそそれぞれが努力して、一瞬でも彼らの人生が交わるところに福蜂の良さが出てると思った。主人公じゃないのにさらに愛着湧いちゃうじゃん!と思ったけど、多分先生にとっては全員が主人公なんだろうね……。「強者の同盟」読んで、ある意味高杉みたいなのも福蜂にいてよかったと思った。本編で灰島へも言及があったけど玉座は二つもいらないんだよな……
辻村先生は思春期の繊細な気持ちを描くのが本当に丁寧。同じ世界をバラバラに、ともに生きるエンディングに繋がる仕掛けは現実の世界での共存の可能性にも訴えかけてくる強度があった。アニメ映画も楽しみ。ていうかアニメはオトナ帝国の監督なんだ……
10月
最後までどちらが勝つか分からない展開、「負けた先でも人生は続く」を底流にした勝者・敗者への平等な目線は今回も健在。三村も見にきてたのがよかったね。そして灰島は3年間ずっと清陰でバレーし続けると思ってたからほんとに腰抜かした。それも黒羽や先輩が1番にここじゃ彼の可能性を潰してしまうと思ったからなのがまた……😭翌年以降の春高で対戦相手として出たり大学で再会したり、ほんとにみんなの人生がこの章だけでも濃厚に詰まっていた。今連載してる大学生編も本当は今すぐ読みたいんだけどデジタル媒体のペライチをスクロールし続けるの目が滑ってしんどいんですよ……せめてページ送りができるようになれば……
江面弘也「名馬を読む」1〜3
ウマ娘の元になった馬やその馬のライバルに関しては自分で調べたりもしたけど調教師や騎手みたいな関係者の想いに関してはなかなか知れないのでこういう筆致で読めてよかった。あとマルゼンスキーより前のハイセイコーやクリフジについても全然知らなかったので読む意味はあったな。
朝井リョウ「発注いただきました!」
いわゆる「案件」で書いた小説やエッセイを集めていて、普段の作家性と少しズレた、でも所々に「らしさ」が香る独特の雰囲気を楽しめた。しかしご本人も後書きで書いてるけど宣伝のひとつとして小説を使うって選択自体が素敵だよね。消費者の奥のドラマを見ている気がする。
11月
大前粟青『ぬいぐるみとしゃべる人はやさしい』
どうしたって人と向き合うと傷つけ傷つくことは避けられない。それを回避するかのように人間ではない何かと向き合い喋る人々はやさしい。やさしいけど、無関心にも取られかねない。そういうことを丁寧に掘り下げていく作品群だった。個人の会話や関心の先には社会構造みたいなのがあって、そこの嫌な部分から逃れたいけど、抵抗しようとしても絡め取られることに対する疲労感みたいなのもちゃんと描かれててよかった。社会構造の中でしか各々の思考・言葉が形成できないとするなら、社会構造をちょっとでもいい方向に変えられればいいんだけど、そこのポイントにどう結びつけるかと言う話でもある。悪意のない人、いい人そうな人がポロッと言ったことで傷ついちゃうしそういう時にいっそ極悪人であればよかったものを……と思うことも何度もあったからその点のつらさに共感できた。
読んだ本(6~7月)
1~3月
lettucekunchansan.hatenablog.com
4月
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5月
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ジャンル雑多、ネタバレ配慮ゼロ、読んだ順
6月
堀あきこ、守如子編著「BLの教科書」
少年愛(JUNE系)〜アニパロ〜やおい〜BLと繋がるコンテンツそのものの歴史、ファンコミュニティ、BLが向き合う「女性の性的欲望」「現実の異性愛規範とのズレ」「ゲイの実態との遠近」のようなジェンダー・セクシュアリティなど包括的にBLを色々な視点から研究する手がかりを与えてくれる。「現実の異性愛規範、与えられたダブルスタンダードへの違和感の表明、抵抗」と「異性愛規範、ダブルスタンダードの内面化」の両方がBL愛好家の女性に見られるっていうのはタイムラインのオタクたち見てるとなんとなく思うし自分にも当てはまるところがあるなと感じた。BL愛好側は大抵、ゲイをある種の記号やファンタジーとして扱ってることに自覚的だけどそこにホモフォビアや異性愛規範が無邪気に持ち込まれてしまうと怖いよな。いまだにBLのことホモ、男女CPをNLって呼ぶ人いるし。「男が好きなんじゃないお前が好きなんだ!」とかBLや百合のことを「性別を超えた愛」って指すのとかも危ういなと思う。最近気になってる「クィアリーディング」と「BL読み」「百合読み」はまったく同じものではないが強い関係があるっているのは面白い。
紹介されてたBL短歌同人誌「共有結晶」今見たらもうオンライン頒布やってないらしく泣いた。
BLと百合、定義の上で百合の性描写の緩さにも触れられてるけどそれも男女間の性規範のダブルスタンダードによるものって考えは目から鱗。
アイドルのいわゆるBL営業やnmmnにも触れられていて面白かったんだけど、それを論じるならクィアベイティングに関しても触れてほしかった。「BLはゲイ差別か?」っていう一連の論争に関してもゲイ側の否定派・肯定派、BL作家側の「ゲイによるBL批判」への応答などかなり丁寧に触れてくれてたので。ところで百合作家とレズビアン当事者の間では「百合はレズビアン差別か?」ってのは議論のテーマになってるんだろうか?
安壇美緒『金木犀とメテオラ』
それぞれ家庭環境でトラブルを抱える二人の少女が出会い、よく知らないまま嫉妬、苛立ちを覚えるのは中高生だからこそだなと思う。中高生のうちにこの本に出会いたかった。ふたりの家庭問題が根本的に解決する描写はないんだけど、「辛いのは自分だけじゃない」「奇跡は起こりうる」って落としどころってことでいいのかな
これは「君だけじゃないさ…friends」話(バナ)ですね。ちなみに表紙イラストは志村貴子先生らしい。
ジュディス・レヴィン著、元村まゆ訳『ソーダと炭酸水の歴史』
アメリカのソーダファウンテン(いろいろな炭酸水やシロップを出せる機械のある店)がいまのスタバのように人々が自発的に集まって珍しい飲み物を楽しむ空間だったところが面白かった。
薬として作られる一方で「カロリーだけで栄養が何もない」「砂糖は危険」と不健康の象徴としても語られる両義性と、生活者はそのどちらか極端な考えってことは滅多にないって話にも触れていた。炭酸の泡を作るのに必要な薬品を数mg単位で調合できるのが化学者や薬剤師だったから薬と結びついて行ったのは知らなかった。ギリ詐欺じゃない誇大広告とかマーケティング戦略とかは今もほとんど変わってないのが面白い。今も機能性飲料の炭酸飲料多いもんな……0カロリーのダイエットコークなのに太る謎。
現代日本では10年に1回ぐらいのスパンで現れては消える炭酸コーヒーだけど初期は「故郷の味を思い出したい」理由でエスプレッソソーダとか作られてたの、何でもありだな。他にもチョコシロップや卵入り(ミルクセーキっぽい?)もあまり美味しさが想像できない。日本では他のどこの国よりも多く期間限定と称して色々な独自のフレーバーの炭酸飲料を出すらしく、当たり前だと思ってたけど特殊だったんだ……でもベーコン味とか出す向こうの感性と探究心は納得いかない……。
コーラがアメリカの象徴、資本主義の象徴なのはわかってたけど公民権運動の頃も黒人の運動家に「いや俺らアメリカ人ですが何か??」のアピール材料として使われてたのは知らなかった。価格も安いし買う頻度も高い分普段アイデンティティや政治に関わるものとして認識してないけど、お金を払う、物やサービスを使う行為はアイデンティティと切り離せないことがよくわかる。
今クラフトコーラが流行ってるのも「オーセンティック」「健康」志向とかいろんな視点で語れそう。
マーシャ・ライス著/柴田譲治訳『リンゴの文化誌』
エデンの園の禁断の果実はリンゴじゃなかった説が一番面白い。桃説、ザクロ説などいろいろある中でバナナ説が(聖書の舞台が暑い気候のパレスチナ周辺なことを加味しても)かなり有力らしいけど、バナナだとなんかオーラがなくなるというか、そういう神秘的呪術的モチーフになると思えないんだよね。白雪姫のリンゴとかもそうだけどそこがリンゴの特殊性だと改めて思う。楽園追放は性欲(=堕落)の始まりとして解釈されがちだけど「採取・狩猟から農耕」という文明化の過程、労働をしなければいけない理由としても解釈できるんだな。
英語圏だとappleを使ったイディオムもめちゃくちゃ多い。「apple of my eyes」=目に入れても痛くない存在、「bad apple」=問題児、とか、まだまだありそうだけどさまざまな文脈に放り込まれているうえに「健康、美、倹約」の善、「堕落、善良な市民の中に潜む悪者」の悪両方の象徴で、昔から身近な果物だったことが言葉の使われ方からもわかる。
日本のリンゴだけでもたくさん品種があるから品種の多様性は十分確保されてるもんだと思ってたけど18〜19世紀と比べると市場経済向きの大量生産ができて保存が効く品種に限定される形でかなり淘汰されてて、その分遺伝子プールも縮小して種全体としては弱くなってるのね……その中で小規模な果樹園で土着の品種を育てる動きや街路樹に植えてある木の実を取って食べる活動が出てきてるのはまだわかるんだけど、イギリスには放棄された土地に入ってリンゴを盗む活動があってその果物をレストランに売って学校運営の資金に充ててるところもあるみたいで、発想の勝利……。
アップルパイ食べたくなってきた、グラニースミス行かなきゃ……🍎🍏🍎🍏
100分で名著『フロム 愛するということ』
これは原典も読まないとダメですね!マゾヒズム的愛⇄サディズム的愛があってそれをそのまま政府と国民の関係に置き換えたのが全体主義ってのが面白い。個人間の愛をより能動的、生産的(してもらうことだけ考えない)にすることで社会全体が正しい愛に包まれるっていうのはたしかにそうなんだけどなんか恋愛だけを特別視するのはやっぱ馴染めない。孤独であったとしても孤立では生きられないのはもちろんフロムが主張してる通りなんだけど、家族や友達であってもあるいは名前がつけられない関係であってもそういう関係になれる可能性を信じていたい。自分が書く作品もその辺を意識していたい。
千早茜『さんかく』
愛し合うことと必要とされること、身体を満たすことと心を満たすことと生活を共にすること、混同してしまうけど別物だよね。あと高村と景子、華とともちゃんの会話で出てくる「尽くす女」の話も身に染みる。誰かのためって思ってても「自分のため」を捨てきれないと思ってるので。伊東と華がディスコミュニケーションからギクシャクしていく様がつらかったけど、伊東と一緒にいたのが高村(結局一人で前向きに生きていける力を掴む)なのが運がよかったんだろうね。ふたりはお互い見栄を張って勝手に嫉妬して、嘘偽りなく話して互いに知っていく時間が二人には足りなかった。
作中の料理が本当に美味しそう。パクチーと羊肉の餃子もいちごパフェも手巻きも食べたい!ナンプラーや黒酢が普通に常備してある家庭。同じ食事を口にすることのあたたかさと、それ以外にもいろんなものを共有してるし、その分言えないことも増えていく高村と伊東の変化もよかった。
榎田ユウリ『武士とジェントルマン』
私にしては珍しく一切の前情報なしで表紙だけで手に取った一冊。「武家制度」がある日本、武士の家にお世話になることになった英国紳士・アンソニー……だけ書くとアンソニーが一方的に何か学ぶ話と思うけど全然そんなことはなくて、むしろ「武士」の伊能長左衛門隼人が周りから与えられたアイデンティティを自問して、もう一度自分の意思で掴み直す話だった。それを通してアンソニーも自分の「英国紳士」というアイデンティティを自問し直していく。あの二人には与えられたアイデンティティに戸惑い自問する時間ってのがあって正解だったんだと思う。周り、特に家族から与えられるアイデンティティは子供のうちは絶対のもので、それが本文で言うよう「呪い」のようなものであっても疑いようがない分大人になって立ち止まるだろうから。でも立場や肩書きが変わってもその人の本質的なところは変わらないよね。水を入れる器が変わっても水自体が変わるわけじゃないように。「武士」を一度やめて「やめるのをやめた」隼人もそうだしFtMをカミングアウトした誠さんもそう。男同士の(利害一致やギリギリの状況じゃない)ゆるやかな連帯にも触れてて良い。女同士の連帯(シスターフッド)が注目されるけどむしろ本当にこういう形のゆるやかだけど上辺だけじゃない連帯が必要なのは男同士だと思ってる。(女は世間から気づかれてないだけで、実際色んなところに連帯があると思ってるので)二人は年齢も民族も立場も違うけど友達になれたんだよな。それが嬉しい。
あと現代の武家制度を描くなら家父長制とか悪い意味での特権意識とかの問題は避けられないだろうな〜と思ってたけどちゃんと触れてて、矛盾をしなやかに乗り越えようとしてる今の世代が描かれててよかった。隼人たちがやってる人助け(詐欺被害を止めるとか災害前の声かけとか)さえ上の世代からは誰でもできるっていい目で見られてないのキッツいね……
金髪武士のヨリちゃんが途中からよっちんの声でしか再生されなくなった。それはもう平古場凛なんよ。
あと何となくこの人BLも書いてる?と思って調べたらドンピシャでした。スタンド使いはスタンド使いに引かれ合う‼️‼️
王谷晶『完璧じゃない、あたしたち』
いや〜〜〜面白い。特に「小桜妙子をどう呼べばいい」「十本目の生娘」「だからその速度は」「シオンと話せば」「東京の二十三時にアンナは」が好き。軽やかな中にもドスッとパンチを食らわせてくる感じで本当に楽しい読書体験でした。いい街も悪い街もなくて今日は相性悪いな〜今日はいい感じの街だな〜ってなるよねわかる。インターネットでは一人称は完全に気分です。ここ最近は俺様がマイブーム。
ヴィクトリア・ディッケンソン著/富原まさ江訳『ベリーの文化誌』
のどかで牧歌的でかわいらしいイメージのベリーだけど今は機械化・産業化された大規模農業や栄養学と無関係ではいられないよね。それが進んだおかげでいつでも安全にベリーを育てて食べられるわけだし。むかし0655で見たクランベリーの収穫シーン(畑に水を張って機械で水をかき混ぜると空洞のある実が浮いてくる)を思い出した。機械化される前なんかは児童労働の問題とも密接に関わってたし、今も移民労働者の問題と関わっているので、ベリーの素朴なイメージを問い直す必要がある。なんかインスタで最近見るサジードリンクってあれの原料もオレンジ色のベリーなんですね。アサイーもビルベリーもそうだけどスーパーフードって言われるフルーツだいたいベリーだなと思ってたらちゃんと説明されててよかった。昔から万病に効くって言われてたらしい。子房が果実になる意味で「ベリー」を定義するとキウイはまだわかるけどバナナやオレンジも広い意味ではベリーらしい。うそやろ??分類がわからなさ過ぎる。
乙一『The Book jojo’s bizarre adventure 4th another day』
4部らしいサスペンス要素とそれでいてどこかカラッとした空気が楽しめたので安心。杜王町で何かの「きっかけ」を見つけるのは露伴先生か康一くんだと思うので始まりから納得。やっぱりザ・ハンドは本編だと持て余されてる感じがあったから億泰の経験が磨かれることでスタンドを使いこなすためのスキル(観察力とか)もブラッシュアップされててよかった。それとなんだかんだ康一くんと由花子さんもうまくいっているようで嬉しい。図書館デートだ!!!!公式CPには誰も文句を言う権利がありませんので^^メタなネタが多いのはある種「公認の二次創作」だからこそだよね。終わり方が全部円満にスカッと収まる感じじゃないけどまだ希望は残ってる、って感じは乙一先生の作風なのかな。オリジナル作品読んだことないからわからん。「野良犬イギー」は読んだのに……複数の人物の一人称視点がクロスしながら進んでいくので一通り読んだ後にもう一度最初から読み返したくなった。
大竹昭子『間取りと妄想』
間取り図って部屋の中や外観の写真以上に想像力を掻き立てられるのはなんででしょうね。情報が多過ぎないからかな。家にはその人の生活が詰まっていて、そこに他の人の人生がクロスしていって家自体に物質的に人の歩みが蓄積されていくから面白い。逆に家の構造が生活者の生活を決定づける側面もある。(「カウンターは偉大」「どちらのドアが先?」)「間取りと妄想」って言うから単に間取りから妄想したストーリーって意味かと思ってたけど、間取りの中の生活者があれこれ妄想する話や、妄想の中の間取りの話もあって二重三重と楽しめた!「ふたごの家」が一番好き。家は生活・人生の基盤だけどそこだけで人格が形成されるわけじゃない。
彩瀬まる『眠れない夜は体を脱いで』
自分の身体から離れるってことは自分が普段社会の中で置かれている役割とか「らしさ」とかからも切り離されるってことだよね。でも身体があっても(むしろあるからこそ)アイデンティティを獲得できるし、一度獲得したものでも自由に更新していっていい広がりも保証してくれる(それが周囲から期待されていたものでなくてもいい)世界があった。でもだからこそ人は不安になる。世間の「らしさ」に馴染んで不安を忘れて過ごしたほうがいいんじゃないかと思う時もある。そういう意味では「あざが薄れるころ」が特に好き。ネット掲示板やSNSみたいな匿名の環境に自撮りとか手の写真とかが上がるだけでもああこの人たちにも自我があって生活があるんだなと思えるよね。それを明かさないことは自我を埋没するって選択でもあるし。
読んだ後自分がもし男で生まれてたらどんな人生だっただろうかと空想させてくれる本だった。
3人の少年少女が大人になってそれぞれの夢を見つけるまでの話。大きな挫折も理想と現実の葛藤も敵わない存在への嫉妬も全部無駄じゃないし過去からの積み重ねが全部集まって今があると思わせてくれる。続きが欲しくなる終わり方過ぎてpixivだったら続きをお恵み下さいタグついてる。
ガトーバスク食べた事ないから食べたくなりました。
7月
辻村深月『オーダーメイド殺人クラブ』
やっぱこういう屈折した学生の話はいくらでも読めるけど、後になっても当時のことは消えない悲喜交々の記憶として残り続けるってところを描いたところがほかにない誠実さだと思う。ちゃんとそこを描写してくれてるおかげで、冒頭の「『これは、悲劇の記憶である。』」ってフレーズが最後まで読むと二重三重の意味として作動する。スクールカースト上位と下位の間にある羨望と軽蔑が入り混じった視線、ちょっとしたことでこの世の終わりかのように感じる思春期の人間関係の脆さ、コンテンツ化される「少女」像に憧れと拒絶が入り混じる少女、「私自身」を取り戻しに行く過程……読みたいものが詰まっていた。文庫版解説のオーケンさんはある種のラブコメとして解釈したみたいだけど私的にはラブ「ではない」コメディかな……。あと人数少ない小学校はカースト意識も薄いし男女の壁も低いけど人数多めの小学校は既にカースト意識強くて浮いてる子目立つ子はすぐ疎外されるし、男女の壁が作られるのも早い。そういう二つの小学校が中学で合流すると後者の文化がすぐ前者出身の子にも染み付いてくるってのは思い当たるところがありすぎて……辻村先生も経験者だったのかとすら思ってしまう。あと読んでて「family name」「DON’T TRUST TEENAGER」が脳裏をよぎった。あれは思春期を通り過ぎた世代が歌うからこその訴求力もある曲だけど。執筆時点で大森靖子が活動してたら絶対アンは大森靖子好きなんだろうなー。でも「絶対彼女」の「絶対女の子がいいな」にほんとに??って思っててほしいー。
長谷川眞里子×山岸俊男対談『きずなと思いやりが日本をダメにする』
社会科学と自然科学(特に脳科学)の領域が年々近づいてきてるのはわかってたけどこんなにがっつり進化学や脳科学のことをちゃんと語ってくれる本と出会ったのは初めてで脳汁がドバドバ出た。チンパンジーは絶望しない。いじめは子供たちが社会的な生き物になっていく過程で生じる成長痛みたいなものなので完全に精神論でどうにか根絶するのは無理で、起こってしまったらそこでいじめる側に厳罰を与えるぐらいしか合理的な解決策はない(ひとりひとりが家庭教師をつけて個人で勉強する、一から十まで児童・生徒を先生が監視するなどもアイデアだが現実的ではない)のはごもっともだと思った。あの手この手で「お説教」、精神論では現代を取り巻く課題はどうにもならないという意識が欠落していることを説いてて、それに代わるものとして制度の正しい制定や言行一致の一貫した精神性を持つこと(自分の意思で物事を決定できる、それでいて他人との協調性もある)が挙げられているけど、結局どっかで精神論は必要になってくる気がするんだよな……少なくとも日本においてはそれを捨てきれない感じはある。
あと多様性や個性の大事さを主張しながら「みんな仲良く」という矛盾についてはべきべきの「共感より共存だ」が答えですよ。
図書館で借りて読んだけどこれは買って保管しておきたいわ……
村田沙耶香『しろいろの街の、その骨の体温の』
青春の、思春期のこういうところが嫌いだったってなる一冊。傷ついても痛いって言えないし血が流れたところを見ることも許されない空間だったんだな。小学校の幼馴染が中学に上がってカーストに引き裂かれる様は辻村深月「オーダーメイド殺人クラブ」でも描かれてたけど主人公が上位グループと下位グループで目に見えて板挟みになってた分さらにキツかった。これだけ人を抉ってくる描写も傷つけたろ!と思って描いてるんじゃなくて書こうと思ったテーマに近づいた結果そうなってるってのが村田沙耶香作品のいいところだね。価値観の格付けからは今も逃げられないように思う。結佳みたいに自分で気付けるのだろうか。自分を愛するってキラキラした言葉のように見えるけど死ぬほど悩んで傷ついてその結果出た答えって場合もあるよね。
松浦理英子『奇貨』
本田にも七島にも、二人の関係にも架空のキャラと思えないぐらい親近感が湧く。二人が淡々と、だけど切実さを持って話すから響くんだろうな。序盤も序盤のお互いの嫌な奴について話してる場面であっこれはいい読書体験になるなと確信した。「男同士の友情に憧れる女」は割と見かける話だけど「女同士の友情に憧れる男」は新鮮だった。
読んだ本(5月)
1~3月
lettucekunchansan.hatenablog.com
4月
lettucekunchansan.hatenablog.com
ジャンル混在、ネタバレ配慮ゼロ、読んだ順です
朝井リョウ『スター』
「作品の内容より作り手の状態を見てしまう」ところ、非常に耳が痛い……今正解とされていることが過去・未来で正解になる可能性があるのか?ってところを見て、それを踏まえた上で自分がいいと思えるか思えないかってことなのかな
本来比べられないものを同じ土俵に上げて比べ続けてしまうこと、自分の本質的な所から目を逸らしたくて何かに騙されていたいと思う人……オンラインサロンの胡散臭さというか物事の本質を棚に上げようとしてる感じは何なんだろうな。「そもそも欲求には大も小も上下もなくて、いろんな種類があるだけなんだよね」。「本物」って何なのか、現代に誰もが認める「本物」が生まれる可能性があるのか……。
なんかこう、「本物」を作り出せる可能性があるとするなら、認められない他人の糾弾に走るより(他人にスケールを広げるより)要みたくただただ自分一人と向き合うか、あるいはもっと地球規模の馬鹿でかいスケール(BIG LOVE)で物事を捉えるかしかないんじゃないんですかね。
「越境しますよね、素晴らしいものは」(大)アンジュルムもどこかに越境して届くのかな。堂島孝平さんの時みたいに。
はーちんや紗友希がYouTuberになった時に非難も多かったことも思い出した。アイドル(ハロメン)とYouTuberの価値って比べられるのかな。
深海菊絵『ポリアモリー 複数の愛を生きる』
ポリアモリーは性的嗜好というより社会的実践の色が強いことがわかった。相手を「自分の所有物」として扱わない原則は愛する対象が一人でも複数人でも心がけるべきことだと痛感する。第一〜第三パートナーの区分など合理的な考えが多く、自由を実践するために合理的なマナーやルールで自分や相手に配慮することも大事だと感じた。
1 意思決定は全員合意のうえで
2 正直であれ
3 相手を思いやる
4 本気で関わる
5 誠実であれ
6 個性を尊重する
ごもっともである……けど忘れがちなこと。
SMプレイだけじゃなくて日常生活でも主従関係を築く関係についても触れてたけど、
「互いに信頼してるからこそ主従関係を結べるし、相手のアドバイスや金銭管理を受け入れられる」「自分にはエマの幸せに対する責任がある」あたりでもしかして……自カプ!?!?!?って悪いオタクが脳内で叫び出した。グループリビングはポリアモリー実践の有無関係なく今後日本で広がりそうな気がするけどな〜。正直今の日本で父母だけで子供を育てることに限界がきてるような感じがするし。
辻村深月『水底フェスタ』
閉鎖的な地方都市で悶々とする中高生は最高‼️‼️
大人になりきれない、擦れてて村の閉鎖的な価値観が嫌いなのに変なところで素直だし大事なものを捨てきれない少年がどんどん何が真実かわからない村と一人の女に吸い込まれていく姿に水底を見た。冒頭や中盤で挟まれるフェスの非現実感がそら恐ろしくも思える。恋愛や性に免疫がないほど狂気になりうるのかもしれない。あれだけ隠蔽体質の村の人間に苛立ってるのにどんどん隠し事が増えていくの、なんというか惨めというか見てられなくなってくるというか……
表向きは開発が進みフェスを受け入れ私鉄の駅ができる進歩的な村なのに村民の体質は保守的で閉鎖的なところが一層ゾッとさせた。
最後の最後まで緊張感が途切れるどころか村の真実、湧谷家、日馬家の真実が暴かれるたびに緊張感が増していき思わず一気読みしてしまった。あんな終わり方じゃ湖に達哉や由貴美以外にも何が沈められてるかわからんじゃんね。仮に逃げ出したとしても広海の性格上また同じように疑念を抱く機会があるかもしれんし、こんな環境に生まれ落ちた子供に「広海」って名付けることすら残酷に思えてきた。
森貴史『〈現場〉のアイドル文化論 大学教授、ハロプロアイドルに逢いにゆく。』(再)
まなかん卒業が発表された今この人はどういう気持ちなんだろうという気持ちで再読した。
ゼミ生と何回も連番してるから「大学教員がもつべきは優秀で世話好きなゼミ生なのだ。」って言ってるのとか、まなかん推しなのに宮本佳林さんに人生を破壊されそうになるオタクの有様とか面白すぎる。
昨日のさんじゅルム企画でも思ったんだけど、質問コーナーでサッと実りある話題を引き出せそうな質問を思いつくオタクになりたいよね。秀逸な質問としてやなみんやゆかにゃの卒業を控えたサンシャインでのリリイベでの朋子への質問、「池袋での思い出は?」が挙がってたけどこういうのってギリギリまでじっくり考えてるのかパッと思いつきで書いてるのか……
体調不良での活動休止→卒業とあまりスッキリしない形での卒業だったため「こじらせ」てしまったという著者。
ということは、逆にいうと、ぼくの「こじらせ」は、幸いにも活動再開した稲場さんが無事に(2回目の)卒業をむかえるのを見届けたときに、全快するということなのだろうか。
ということは今彼は「全快」に向かいつつあるんだろうか……。
ドラマ武道館と舞台タイムリピートを絶賛してる章があったけどタイムリピートは本当にいい舞台だよなあ。全員に見せ場がきっちりあるし、
「私たちは若い。私たちには未来がある」
「たしかに若い、だが自分の仕事に責任を持ってる!」
あたりはアイドル舞台で言うからこそ光るセリフ。
juiceヲタとしての活動記録をメインにしつつ元カントリーだったのでカントリーの話もちらほら出てくるんだけど、やなみんは幼さと大人びたところのアンバランスさを「商品」としてパッケージしてたわけだけどそこに限界が来たがゆえの卒業なのかもしれんなというのはいまだに思う。指摘されてる通り、もう表舞台に出てこない以上彼女が当時何を考えていたかは永遠の謎だけど……。あとこんな言い方するのはアレかもしれないけど今のわかなちゃん見てると、もしやなみんの兼任先がアンジュルムだったらどうなったんだろうと考えてしまう。
終章で自分がアイドルヲタクになって変わった事を振り返ってるけど、私がアンジュヲタになって変わったことって何だろう……。
あと後書きでスペシャルサンクスとして名前を出されてた関大ハロ研OBOGの二人ってフォロワーのフォロワーでは?
いとうせいこう『自己流園芸ベランダ派』
「鉢という時点ですでに、ベランダーは自然に反している。ベランダで植物を愛するという行為が、こうして自然に対抗することでもある事情は複雑だ。」とあるように、一番身近な自然でありながら鉢植えして人間の手をかけている点で「反自然」でもあるベランダの植物への眼差しが愛おしい。ゴーヤ、ヒョウタンなどツル植物への愛情と言うことを聞いてくれないペットに対するような苛立ちは小さい頃学校でへチマを育てていた頃を思い出した。
あとは、ちゃんと根付く前のミントの芽の介護の話は実際に育ててるからこそ出てくる話だよなあ。ミントはそこかしこに伸び放題になって鉢や庭中を占拠するイメージだから……
雑草はあえて抜かないでおく、観賞用に品種改良された植物が「先祖返り」してもそれはそれで愛でる、枯れてしまったり果物の実が鳥に食べられたりしても悲観せず、また新しい植物を試す……「ベランダー」の「試しては枯らし、枯らしては試す」生活は、反自然の鉢の中を可能な限り自然に近付ける営みなんだと思う。
「ベランダで起きるささいな現象は、世界や宇宙の変化とダイレクトにつながっているのである。」このフレーズを読んだら、鉢植えをひとつ買って「ベランダー」の仲間入りをしたくなった。
いとうせいこう、柳生真吾「プランツ・ウォーク 東京道草ガイド」や村田あやこ「たのしい路上園芸観察」も読みたくなった。路上園芸は「ベランダーストリート派」として語られてたし。
星野智幸『植物忌』
「自己流園芸ベランダ派」とあわせて、植物は自由自在である意味動物よりコントロールが困難なのではと思わされる一冊。植物が意思を持って人間を侵略しようとする世界の「ひとがたそう」「始祖ダチュラ」を読むと、やっぱり人間は増えすぎたと思ってしまう。
ラストの「喋らん」の「意思疎通なんてさしてできていなくても、どうにかなるもんだ、と。むしろ、細かなところまで完全に了解しあおうとふると、行き違っていることがあからさまになって、許せないという気持ちが湧き起こってしまうわけだ、と知るのです。」のフレーズは、意思疎通に本当に言葉が必要なのか?と考えてしまう。植物が自然のいろいろな営みに反応したり人の手で品種改良されたりしてその姿を変えていくのを見ると遠い未来では本当に「泣けるススキ」「喋らん」が世に出てくるんじゃないかと感じる。
刹那的に華やぐ植物は美しいと「スキン・プランツ」で再確認。これからタトゥーしてる人やハゲてる人を見るとスキンプランツになるのかなーと思ってしまいそう。
全作に共通して出てくる植物屋の名前が「からしや」で、その由来は枯れることまで植物の営みとして枯れた草木も扱うから「枯らし屋」→からしやになったとのことで、そこもまた「自己流園芸ベランダ派」とつなげて考えてしまう。動物だと殊更にペットや競走馬は人間のエゴ!なんて言われるけど、植物だとそういうのあんまり聞かないもんな。
ちなみに、『自己流園芸ベランダ派』と『植物忌』は同じ日に読んだ。直接関係のない2冊だけど、続けて読んだことで相乗効果で旨味を楽しめたと思う。食べ物に食べ合わせがあるように本にも「読み合わせ」があるのではないだろうか。題材が似ていればなんでも「読み合わせ」が良くなるわけじゃないんだろうなというのは何となく感じてるので色々な「読み合わせ」を探求していきたい。
朝井リョウ『世にも奇妙な君物語』
世にも奇妙な物語が好きな作者とはいえなぜ小説という媒体でこれを発表したのか、ドラマの脚本に携わればいいのでは?という気持ちは最後まで読むと払拭される!第5話「脇役バトルロワイアル」が1-4話のキャスティングにつながっていたテイで進むところ、空気階段の単独的な面白さがある。どれも本家らしく唐突に得体の知れない人や概念が出てくるところ、それでいて現実社会を映し出し風刺する要素も含まれているところ、最後にどんでん返しがあるところがニヤリとできる。第2、3話はどんでん返しのあとにさらにもう一声仕掛けがあって更にゾッとできた。
あと作者あとがきで「世にも奇妙な」という言葉が(本来世の中は何の理由もなく唐突に起こる出来事も多いのに小説だと絶対理由が必要だが)無から何かを生やすのに便利って言われてて、そう言われるとジョジョの「奇妙な」冒険もかなりそうだなと思った。特に4部及び岸辺露伴は動かないシリーズにおいて(結局最後まで何なのかよくわかってない振り返ってはいけない小道とかガチの宇宙人なのかスタンド使いの人間なのか謎なミキタカとかね)。
いとうせいこう『存在しない小説』
そもそも存在しない小説とは?「存在しない作家」が書いた体で出した「存在しない小説」でも、この本はたしかにこの世に「存在している」のでは……?と思いながら読み進めていたのだが、読み進めるにつれて小説という媒体の(映像や音声が持たない)自由さに驚かされた!上も下も過去も未来もゴチャゴチャにされるような奇妙な体験は小説が得意な領域だということを再確認し、「存在しない小説」とは翻訳者、読者が「存在する小説」にふれることで初めて生まれ出るものだと感じた。小説の読み手は決して受動的ではなく、むしろ能動的に想像力を働かせる。それによって同じ文を読んでいても受け取り方が大きく異なったりするのが小説が持つ面白味だと確かめることができた。
「『存在しない小説』とは、読者に読まれることでその都度生まれ、しかし印刷されて残ることのない小説ではないか。
つまり、『存在しない作家』とは読者のことだ、と。(中略)
あらゆる作家は最初の読者として『存在しない小説』を絶えず排除する。排除しながら『存在する小説』のみを書き残す。」
またこの本には「作者」のいとうせいこう、「訳者」のいとうせいこう、「編者」のいとうせいこうが登場している。作家の「いとうせいこう」が書いた小説を「仮蜜柑三吉」なる訳者が訳し、編者の「いとうせいこう」が解説した結果、「私が書かなかった私小説」すら誕生した。はたしてそれら三者が同一人物か、あるいは私たちの知る「いとうせいこう」と同一であると言い切れるのだろうか?名前とは単なる識別のための記号に過ぎないはずなのに、同一性を期待してしまうのは何故だろう?そこもまたパラレルワールドに迷い込んだような不思議な体験だった。
内容としてはアメリカ、ペルー、マレーシア、日本、香港、クロアチアと世界のさまざまな地域を舞台とし、行ったことのないはずの地域でもありありと情景が浮かぶところに「訳者」の腕が光る。特にマレーシアに住む女子小学生とチャイナタウンの中国人のひとときの緊張感ある交流を少し背伸びした子供の視点で描く「あたし」が気に入った。
小説(文字媒体)の可能性はまだまだ開かれていると感じた一冊でした。
舞城王太郎『私はあなたの瞳の林檎』
誰にでもある”You are the apple of my eye”=「目に入れても痛くない」ほど愛おしい存在、時間の話。小6から中1の春休みの間だけの二人きりの時間と、それからのふたりを描く表題作、自分がやっていることは芸術なのかと思い悩む美大生と「オリジナルの芸術じゃないのにそうと思い込んで創作する」ことを「うんこサラダ」と呼ぶ才能ある同級生の出会いを描く「ほにゃららサラダ」、「この世の全てに客観的な価値や意味はないから生きていても死んでいても意味はない」と考える男子中学生と二人の女子クラスメイトが織りなす「僕が乗るべき遠くの列車」の3作通して、性の目覚めや気まぐれな女の子の心理、独占欲、自分にないものに憧れる気持ちを一人称視点で鮮やかに描いていた。特に「ほにゃららサラダ」は女子大生の一人称視点ということで本当にこちらに語りかけているかのようなテンポが心地良い。表紙の蛍光色のイメージにぴったり。
「自分の価値観を貫くか、他者に委ねるか」を問う場面が多いし、主人公の前に思わせぶりな態度で自分の価値を問いただす異性が登場したりと、全体的にちょっとセカイ系の匂いも漂う。
主人公が小学生時代の初恋を高校生になっても抱え続け、「それは本当の好きじゃない、相手なんて本当は誰でもよくて、後から特別感がついてくる」と否定される表題作、「自分の初恋を運命だと相手に認めてほしかった」女の子が登場する「僕が乗るべき遠くの列車」といい、初恋の特殊さを色々な視点から描いているのも良かった。
創作物なんて完全な無から生まれるオリジナルなんてないと思うし、言ってしまえばみんな「うんこサラダ」なんじゃないんですか??だから高槻がそうやって定義することにも価値はないと思う。
「阿修羅ガール」も読まなきゃな〜。
王谷晶『ババヤガの夜』
ヤクザの世界に転がり込んだ暴力を生き甲斐にする女と、組長の娘の運命的でギラギラした出会い、連携、逃走!恋人にも義姉妹にも友達にも主人と従者にもならない二人だけれどそこには確かな連帯があることはわかる。
暴力でしか生きられない依子だけど暴力が蔓延っていても面子のためだけに動くヤクザの世界はさらに生きづらかった皮肉。
40年も一人の女の処女性に執着する宇多川なんて側から見れば馬鹿馬鹿しいことこの上ないんだけど、それもそいつからすれば愛(かつて愛だったもの)だって言うんだから恐ろしいよね。
柴崎政男と内樹由紀江も逃げた2人だけど、彼らも面子だけで動いたり道具扱いされたりする稼業に思うところがあったのだろうか?この2人のことは逃げた以上のことは明かされないけれどどうしてもそう思って依子と尚子にも重ね合わせてしまう。そういう風な叙述トリックが仕掛けられているからでもあるけど。この2人は今幸せだろうか?
尚子が男の格好をするようになったところに理由なんてなくて単にスカートや長髪はなんとなく性に合わないからだったけれど、その方がかえって一緒に生活していくには都合が良かった(姉弟や夫婦に見えるので)の、一連の逃走が依子と尚子を知る読者からすれば大事件だけど社会環境がガラリと変わるような規模の出来事じゃないことを思い知った。表向き型にはまった方が生きやすくて、そこにはまってさえいれば中身なんて他人は気にも留めないっていうのは痛い所突かれた。彼女らが自分自身の面従腹背さを自覚しているからこそ続けられた生活だと思う。
ヤクザの世界は女は当然ながら男も人格や権利なんて認められず組織の道具に過ぎないことを最後の柳のセリフが突きつけてくる。サバイブのために女性蔑視を内面化してしまった男も多分いるんだろう。柳はあれから故郷に帰って幸せに暮らせているだろうか。
在日コリアンへの差別、抑圧にも少し触れてるのでお?と思ったら作者は「小説版 韓国・フェミニズム・日本」にも寄稿してるのか……そっちも読むか……
「Dear Sister」のフェリーから海を臨む桃奈がそれっぽいと聞いて読んだ。40年以上昔の作品もあるのに全く古臭さを感じない、SFにはこういう傑作が多い。読み終わった後、エマノンはもしかしたら今もどこかで旅を続けてるかもしれないと感じる一冊だった。エマノンが出会った人のことを忘れないように、エマノンに出会った人もエマノンを忘れないんだろう。忘れたいことも忘れられないのは辛い人生なのかな。(作者も「忘れたいような辛いことが忘れられないというのが一番辛いんじゃないかと。」と言及してる)子供を産んだら記憶が引き継がれてもとの「エマノン」は完全に抜け殻みたいになるってのも、なかなか側から見ると辛い。「とまどいマクトゥーヴ」「たそがれコンタクト」「あしびきデイドリーム」にはエマノン以外にも特殊な人間が出てくるけど、その特性や能力自体に善悪はなくてただそれぞれの想いを抱えて生きているっていうのがこの作品のテイストだと思う。エマノンも何十億年もの記憶を保存してるけどあくまで人間としての一般的な感覚は失ってないし他の人間の悩みに寄り添う姿勢もあるし。「とまどいマクトゥーヴ」(1982)の神月は特殊能力ゆえに強い上昇志向とノブレスオブリージュ(に見せかけた支配思考、選民思想)を抱えていたわけだけどそういう所にちょっとDIOやカーズが脳裏をよぎった。今よりみんな上昇志向が強かった時代なんだよね。
大森靖子『超歌手』
まあ言いたいこと色々あるけどMetooじゃなくてInMyCaseだろってのは目からウロコでそれこそ「共感より共存だ」だし2017年時点で既に「DON’T TRUST TEENAGER」って言葉もその根っこの思想も既にあったんだって驚き。誰も他人の人生を生きられないし人それぞれの孤独があるからそこに気付くことから始めるのがこの国の現状なんですよね……あと人を傷つける人間の大半は無自覚だと思ってるから普段から自分の感覚発言行動をどれだけ自覚して実際に言葉行動にせずとも今おれはこんな感情だぞっていう面従腹背状態をどれだけ持てるかみたいなことも思う。愛が重いのは恥ずべきことではない。私が好きなアーティストは90年代〜00年代ポップス(特に女性)を敬愛してる率高いからちゃんと聴いときたいのよな。あの時代のアーティストがとにかく自由だったことはわかる。
人間はつねに均質じゃないし1秒先には全然違うこと考えてたりするの、インターネットに浸かってると忘れそうになるよね。
108の質問でこぶしファクトリーに曲提供したいって回答してるところがあってあーそれ見たかった、、ってなった。質問者もにっちやんやゆっきゅんやでか美ちゃんやシュガビンさんに吉田豪さんに知ってる人盛り沢山で嬉しい。「選挙前は天下一武道会の選手紹介みたいなノリの煽り番組つくってほしい。」それだ!!
岩下朋世『キャラがリアルになるとき』
「キャラ」と「キャラクター」の差異をさまざまな事例から論じる一冊。テニミュと原作の「成長」に対する向き合い方は、キャラクターと演者が二重写しになるテニミュだと「演者が『キャラ』になる過程を巻き込む」のでよりリョーマの青年期の成長物語としての側面が強調される(特に、ずっと小越さんがリョーマを演じ続けた2nd)が、原作だとリョーマの成長はテニスプレイヤーとしての成長の描写に徹し、終盤でその成長過程が(幸村との対峙で)相対化される、という比較のされ方がされてて面白かった。新テニも基本的には高校生→海外選手と新たなプレイヤーと出会ってそれまでの強さがどんどん相対化されていく過程の話なのでね……。幸村も幸村で「五感を奪われる」のはまさにそれまでの歩みが相対化されてると思うし。そこからどうやって自分のアイデンティティ(テニスのプレイスタイルとして描かれることが多い)を取り戻す、あるいは更新していくかの話、新テニは
2008年刊行の同人誌「テニスの王子様 爆笑・恐怖・激闘 完全記録」読みたすぎる。テニミュが新人キャストを集めて演じられる一方で3rdからの続投や2.5次元舞台、グランドミュージカルなどで十分経験を積んだキャストも入り混じり、さらにアニメ声優を起用することでメディア間の境界が更に曖昧になる新テニミュに関する分析も読んでみたいと思った。
電王の「イマジン」がもたらすキャラとキャラクターの多面性、これによりイマジンが主体で物語が作れることの独自性に関する分析も面白かった。
今後漫画読むときはキャラの表情やセリフだけではなく「視線」に注意して読んでみたいと思う。
自然に向き合う人間・文明。自然の恩恵を借りなければ生きていけないのに敬意を忘れて破壊してしまう愚かさを持つ人ばかりに見えるけど、自然を慈しみ大切にする人がいなくなったわけじゃないよね。そう思える。人間にはまだそういう可能性がある。こうした自然破壊とか人間の愚かさを描くのにSFは向いてるとは思ってたけど、それだけじゃなくて可能性も描いてるのがよかった。「いくたびザナハラード」にはメタフィクションの要素もあって驚いた。個人的には「いくたびザナハラード」で川をきれいにしてるおじいさんに感化されて子供たちも手伝うようになったところが希望の継承を感じですごく、よかったです。2020年代にもこんな可能性はまだ残っているだろうか?と思いを馳せた。
吉田修一『アンジュと頭獅王』
1000年経っても慈悲の尊さは変わらない。頭獅王が現代にきてからが特に面白い。100%現代と一致しているのではなく平安時代中心に他の時代も入り混じっているような世界が圧巻。文体も古典と現代文が入り混じり絶妙に声に出して読みたいリズムを作っていた。怨念を晴らすことと慈悲の両立、聖様の戒律と慈悲の葛藤で成り立つバランスも見もの。誓文のシーンは丸暗記して誦じたくなった。
読んだ本(4月)
lettucekunchansan.hatenablog.com
1~3月はここから。
ジャンル混在、ネタバレ配慮ゼロ、読んだ順です
星野源『よみがえる変態』
くも膜下出血で倒れる前後の3年間を記したエッセイで、闘病中の出来事や気持ちにも仔細に触れてるのに悲壮感がほとんど感じられないのが独特。入院中の出来事を動画に撮って記録して公開しようとしていたのも知らなかったので驚いた。最低のどん底に見える状況でも自分に、世界に希望を持とうとしてると思った。ただ、文庫版後書き(2019年)として「ただ、この作品の頃は、まだ希望をしっかりと持っていたと思います。(中略)今、僕の目の前には、いつも絶望があります。(中略)どんなに頑張っても、この世の中は馬鹿なままだし、最悪になっていく一方だよ。例えば昔の自分にそう言っても、きっちり『いや、そんなことはない』と言うでしょう。そこが彼のとてもいいところだなと思います。」と書いてあって、10年代ってそういう時代だったよなと思ってしまった。星野源でもそういう気持ちになるんだな。淡々と自分と向き合って面白いことをやり続けるしかないってのもわかるし。
真面目な哲学もくだらない下ネタも垣根なく並べられているのが割と自分の理想だった。
岩井勇気『僕の人生には事件が起きない』
「事件」のない、傍から見ればなんてことのない日常を展開して読者に咀嚼させる。文章としてのエッセイはきっと廃れないと思った。珪藻土の話、薄い親戚付き合いのキツさ、めっちゃわかるwwwwww
自虐ネタは「その人にしかできない」分「ネタ」ではなく「フリートーク」という考えは自分にはなくて面白かった。
「競馬における『距離適正』があるように、漫才師にも『時間適正』というものがあります。」
「漫才にクラシック三冠のように、2000メートルの皐月賞、2400メートルの日本ダービー、3000メートルの菊花賞と、時間ごとの大会があったとしたら、三冠王候補は断トツで中川家でしょうね。」
この辺の「時間適正」の概念も目から鱗だった。
「誰しも黒い部分を持っていて、そこを解放してあげることもお笑いの役割のうちの一つだと思っているのですが、嫌な気分にはなって欲しくない。」
これはすごくわかる。2019年時点、トム・ブラウンとマヂラブに(同じしっちゃかめっちゃかな漫才でも)正反対の評価を下していて、2020年以降はどういう評価軸で見てるのかも気になる。ブログで毎日短い漫才を書いて投稿するのを続けてると聞いて見に行ったけど1〜2往復の会話でこんなに面白いものを作れるとは!ダウンタウンVS爆笑問題の時事ネタ対決はいつか見てみたい。
漫才を見る視点が増える一冊だった。
雪舟えま『凍土二人行黒スープ付き』
う〜〜〜ん…………SFチックな世界設定は好きだし人外×人間も好きなんだけどもっと根本的なこの人の思想的な部分が気に入らないぜ〜〜〜〜………
『シールの素晴らしいアイデア』のシールはやふぞうっぽいけど最終的にサバと恋仲に近くなるところに違和感があった。そうじゃないだろ?あとこの人の描く二人組(恋愛かそうでないか問わず)って片方が「他者に必要とされること、存在していいと許してもらえること」でもう片方に寄りかかってる事が多いんだよな。それ自体が悪いわけじゃないけどそういう行為が孕んでる有害性みたいなものを無視しているような感じもあってモヤつく(有害性を理解した上でそれでも選ぶんだ!となる作品は好き)。『緑と盾』『恋シタイヨウ系』は割と好きだったのはいろんな関係性に視点を変えずに緑・盾(パラレルワールドも含む)の極めて個人的なところから動かなかったからかもしれない。いろんなコンビでやってるオムニバスだから「そういう思想が根底にあって書いてる」ってのに気付きやすくて、そこがキツかったのかも。緑と盾シリーズ以外はもういいかな……
絲山秋子『夢も見ずに眠った。』
日本各地を巡りながら自分の生き方、考え方にも思いを馳せるふたりの物語。何歳になっても人は脅かされることなく安全に暮らせる「楽園」を探してしまうのが現実だし、その中で現れる「異物」としての他者にどう向き合うかに人柄が出るんだと思う。鷹揚さで時に周囲を和ませ、苛立たせる高之の方が自分に似ていると思ったが、沙和子のように過剰に周りの期待や要望に沿ってしまいながらも満たされない気持ちを抱えている気持ちもわかる。でも結局みんな自分のためにしか生きられないんじゃないかな。
「すべてはばからしく、同時にいとおしいと思われるだけの価値を持っていた。矮小な存在でありながら無限と繋がっているのだった。かれは巨大な織物の一本の糸を構成する微細な繊維にすぎなかったが、その織物は単色でありながら虹のようにあらゆる色を含み、軽くしなやかなのに織り目は誰にも解きほぐすことができないほど複雑なのだった。」
日記やエッセイにも言えるけど、特に大それた事件の起きないありふれた日々を表現するのには文字媒体が一番向いてるんじゃなかろうか。「僕の人生には事件が起きない」でも思ったけど。
松田青子『男の子になりたかった女の子になりたかった女の子』
「ゼリーのエース(feat.「細雪」&「台所太平記」)」「向かい合わせの二つの部屋」が特に好き。「ゼリーのエース」は世間が求める「大人」にみんながみんななる必要はないんだなと思える。成熟と馴致の違い。「向かい合わせの二つの部屋」は、自分も長く団地に住んでいるので生活の点ではリアルではあったんだけど、実際は隣は何をする人ぞ……感がもっと強いので、リアリティと虚構の入り混じりが絶妙で面白かった。誰かと同居することって「生活の全てを構成員一人の意見だけで決定できなくなる」ことでもあるもんな、とも思った。それが心地良い人もいれば息苦しい人もいるけど、互いに息苦しくならないボーダーラインって一定のものじゃないから難しい。
「『物語』」。人を特定の枠に押し込める「物語」はどこにでも潜んでいて、この話では男女の社会的役割、ポジションに関する「物語」に抵抗する人々の話だったからそうだそうだと読めたけれど、もしこれが国籍、民族、性的・恋愛的指向、年齢、学歴、経験、病気・障害などほかの「物語」だったとしたら……と思うと自分も「物語」を内面化してしまって捉われから脱出できていないのでは?と感じた。色眼鏡を補正するためにはこうやって一気に揺さぶってぶち壊してくる存在が必要。
https://co-coco.jp/series/study/ariokawauchi_masayukikinoto/
この記事も思い出す。
「誰のものでもない帽子」や「斧語り」など、新型コロナウイルス流行後の世界を扱った小説は初めて読んだので、今後この世界がどのように描かれるかは見ておきたいと思う。
村田沙耶香『消滅世界』
なんで人が生殖にこだわるかわからん側の人間(子供は好き)なので後半にかけて(雨音が感じる違和感とは別の意味で)どんどん薄気味悪くなっていった……。
世界設定⬇️
☆人工授精で妊娠する「さらに高等な動物になった」
☆人工子宮の研究が進んでいる(男性や生理の終わった女性も妊娠できる可能性を追求している)
☆恋愛はアニメなどの「キャラ」にするもの(ヒトと一生恋愛しない人も珍しくない)
☆性欲処理は原則マスターベーション、まれにセックスもするが年々減っている
☆夫婦関係を結んでも双方別の恋人を作って良いとされている
☆実験都市ではコミュニティ内の大人全員が「おかあさん」としてみんなが生まれた子供の面倒を見て愛情を注ぐ(「家族」システムの消滅)(可愛がるだけ可愛がって責任が有耶無耶になっている)
「ヒトと恋をして繁殖する必要がなくなったから、性欲処理のためにたくさんのキャラクターが生み出されてるのよ。私たちの欲望を処理するための消耗品じゃない。」
ここ、二次元のオタクとしては自分がキャラに向けてる尊敬、友愛、感謝、いろいろな気持ちを全部「恋愛」「性愛」にすり替えられた感じがして窮屈さにゾワっとしちゃった。
「ヒトとの恋愛は、うっかりするとすぐにマニュアルじみてしまう。(中略)ヒトではないものとの恋は、工夫することから始まる。」ここで数多の二次元ガチ恋・リアコオタクたちの走馬灯が流れていったのは内緒な!
この世界ってアニメや漫画や小説など「キャラ」作りに携わる人が実質性産業みたいな扱いになってるんですかね。
水人が言ってたことは色々私も思うことがある。
「たまに思うんだけど、性欲って、俺らの身体の中に本当にあるのかな」
「テレビや漫画からいつの間にか性欲や恋愛感情の『種』を体内に植え付けられて、それが身体の中で育ってるだけじゃないのかなーって思うこと、あるよ」
これすっごい気になっちゃうんだよな。ここで言う『種』に触れてきても恋愛感情や性欲を抱かない人もいる分、余計に何なんだ!?ってなる。
実験都市では完全に大人がみんな「子供ちゃん」を育てる「おかあさん」になってて、次世代の子供たちを産み育てるためだけに存在してるような感じがした。反出生主義ではないけど、「命を繋ぐ」って言葉にはどれほどの価値があるんだろう?って疑問には思ってしまう。あと恋愛も家族制度もなくなった世界でも子供を育てる役目の名称が「おかあさん」なの、キツいな……
たしかボクらの時代でもぐらも「子供は自分の子だけじゃなくて社会の子なんだから」みたいなことを言ってたな。それはわかるんだけど、「自分の子」要素を完全に排除するとこんなにゾッとするもんなのか……
とにかく読み進むにつれて気味の悪さを感じて、でも読む手が止まらない一冊だった。最後雨音と実験都市ではおそらく初めてのセックスをした「子供ちゃん」はどうなるんだろう。
今は「逆に法制度としての『結婚』がなくなったらこの世界どうなるんだろう?」ってことが疑問として湧いてきてる。もしもボックスが欲しい。
漫画を構成する「ストーリー」「絵(美術)」の両方の表象に触れながら独自性を指摘する一冊。バトルの主力が波紋からスタンドに変わった3部以降でも「DIOとジョナサンの結合によってスタンド能力が開花、それがジョースター家に広がる」=波紋、各部でよく出てくる水の表現=波紋、生と死のサイクルの広がり=波紋と、「波紋」的な表象が終わらないことによって、各部で独立したストーリーを展開しながらも繋がりを保っている説に関しては目から鱗だった。
ジョジョがジョースター家の広く長い血縁関係を主軸にした物語でありながらも血縁神話、家族神話的な悪いところを感じないのは、親子関係の多様性による(父のDIOをほとんど知らないジョルノが血縁や権威に依存しない共同体のメンバーになる、ディアボロが娘のトリッシュを殺そうとする、ジョセフが不倫して生まれた子供が仗助、承太郎と徐倫は長い間会っていないなど)によるものだと思っていたけれど、「それゆえ、本作は『善人』たる主人公たちの単純な血縁関係による物語になることはありません。親から子へ、孫から曾孫へといたる各パートの主人公たちは、血統的遺伝(「波紋/幽波紋」)能力にもとづく『正義』の人生を強調することはありません。むしろ、各パートにおける特異な『最大最悪の敵』との葛藤をつうじて、それぞれ独自の自律的精神性の展開にいたるのです。」と言われて、スッと納得が行った。仗助や徐倫の成長が特にわかりやすい。
岸辺露伴という人物の特殊なポジション(主人公仗助の敵でも味方でもない、「動かない」での怪異に干渉しても倒そうとはしないことによって善悪をねじ曲げる)あたりは結構身に覚えがあるんだけど、「岸辺」に「露」が「伴う」のは(↑の)波紋的表象から見ると当然のこと、とまで書かれてるのはかなり強引にも思えて笑っちゃった。でもあり得なくはなさそうなのがまた……
まだ6部途中で6部DIOへの理解が追いついてないんだけど、ここを知ったらもっとジョジョが面白くなりそうな感じはした。
「二重人格(≠光と影、表と裏、善と悪)のドッピオ(=ディアボロ)も殺人衝動を抑えられない吉良吉影もある意味人格障害」(意訳)ではあるんだけど、それを「可哀想」と読者に思わせないのも独自性強いところだと思う。善悪二元論を捻じ曲げてはいるけど同情ベースに持っていかない。
「権威的制度にもとづく集団戦争ではない、個人間の世界概念にもとづく非善悪二元論的な葛藤友愛物語となるのです。」まあこれがいいまとめだよね。ジョジョのオタクと平成ライダーのオタクって(同心円ではないとはいえ)だいぶベン図書くと被ってる印象があるんだけどこうやって言語化されるとやっぱり近いところにある気がする。
ちらっと出てきた「ストーン・フリーはハーミットパープルとスタープラチナのいいとこ取り説」も盲点だった。茨⇄糸の伸縮性と強烈なパンチ。
あとジョジョに直接関係ない短編集はノーマークだったから読みたいな。許斐先生の「COOL」はテニプリに繋がるエッセンスをたどりたくて読んだことだし。
昨今は「公式の言うことが絶対」って水戸黄門の印籠みたいに使う風潮が強まってきてるからこの手の本みたいな視点大事ですね。読者の自由な発想や分析は(それが的外れだったとしても、こじつけに見えたとしても)封じ込められるものであってはいけないと思った。
柚木麻子『BUTTER』
連続殺人犯の梶井は自分自身が世間に振り回されずに奔放に楽しみながらも、あくまで「女の使命」として男を楽しませるエンターテイナーに徹し、それを怠る女性は徹底的に卑下する……という一見矛盾を孕んだ女性なんだけど、それは結局与えられたルールからはみ出ること、ギブアンドテイクの関係を破ってしまうのが怖いからなんだ……という落とし込み方は観察眼の冴え渡り方に感動した。ふつうここまで辿り着けないよ。梶井を理解ししていく過程で魅力に心惹かれ→友達になりかける→と思いきや最後の最後に裏切られ、破滅しかける→自分を守り、大切にする手段をもうわかっていたので自分自身を救うことができた っていう流れにも血が通っているように思える。自分のため、誰かのために時間をかけて料理を振る舞うことは確かに愛情をかけることと言えるかもしれないけれど、手間ひまかけて作った料理そのものが愛情というわけではないんだよな。愛情を伝える手段のうちの一つとは言えるかもしれないけれど、絶対的なものではないし、料理は時間をかけて作り出された結果に過ぎない。それを見誤ると、性別関係なく「家庭的」とか「手作りこそ愛」っていう幻想に縛られる。
セルフネグレクトという言葉が普及しつつあるけど、自分を粗末にすること、他者は自分のことを大切に思っていないと思うことが他者に対する暴力っていうのは、まあそうだよな。この世界に一人でも自分を大切に思ってる人がいると思えるかで明暗が変わることって案外よくあることなのかも。 (これは空気階段『anna』とかもそう)
この本では長い時間をかけた人間関係の修復がそこかしこで出てくる。「『いつか』を信じることは、弱いことでもおろかなことでも逃げでもないのに。」という言葉が象徴的で、つい瞬間瞬間の言葉の応酬、感情のギヴアンドテイクに気を取られがちになった時支えてくれるような気がした。
誰かに見た目、スペック、人柄、なんでもジャッジされてるように感じてしまうからこそ自分の中で一本芯が通った規範とか、肯定してあげる気持ちとかが育てられたらそれが最高なんだけど、なかなか環境によるところもあるな……里佳は少しずつ自分をそういう風に育てていって、最終的にはその気持ちを育てられる側の人にもなったけど。
そして作中に出てくる料理がどれもこれも美味しそう。塩バターラーメン、カトルカール、ルウではなくソースから手作りのシチュー……
本筋にあんまり関係ないんだけどここが一番共感できた。
「関わりたくない相手を無意識のうちに欲情させていたと知れば怖気が走り、自己嫌悪に打ちのめされる。でも、自分の意志でこれぞと狙い定めた相手に働きかけたものであれば、それは少しも里佳の存在をおとしめない。」
ところでスクリームの恵ってのはズッキがモデルなのだろうか。卒業時期も作中とほぼ一致するし参加したラストシングルがディスコファンクってのも泡沫?
kemio『ウチら棺桶まで永遠のランウェイ』
何事も経験、好きなことは継続してナンボだと思った。スルスル読めるし「飲める本」って前書きって言ってるだけあった。ラッキーばっかりに思える奴もなんかムカつくやつも悩み苦しみが違うだけでなんかと戦ってるのは同じって思えたらもっと肩の力抜いて生きられるのかもね。
「性格なんて気圧でも変わるし『性格がいい』って概念、いらなくない?そんなの自分の意識でなんとかできる範囲」
がどっかで探してた言葉過ぎた。
恩田陸『麦の海に沈む果実』
明るくない学生の話って本当に面白い!!𝑪𝑨𝑵𝑴𝑨𝑲𝑬 𝑻𝑶𝑲𝒀𝑶!!
中高時代のあの独特な閉塞感ってなんだったんだろうなと思ったら、お前、そういうことだったのかーー!!!と終盤で一気に畳み掛けてくる。事実と嘘の境界線があやふやになっていく感じがゾクゾクした。校長が二重人格かもしれんと思ってたけど全然そんなことはなかった。ホワイトスネイクで夢を見せられながらドロドロに溶かされてる時の承太郎と徐倫みたいな……あの学校には理瀬や麗子も含めて他にも校長の子供がいるってことでいいんですかね。
品田遊『名称未設定ファイル』
オモコロのヲタクなのにそういえば読んでない!と思って。インターネットやコンピュータにまつわる短編集。1段組と2段組、縦書きと横書きが入り混じる構成や袋とじページで「本」を読む楽しさが倍増した。フィクションでも現実と同じような構造が見られる話(「猫を持ち上げるな」)、この後どうなったのか明示せず想像力が掻き立てられる話(「この商品を買っている人が買っている商品を買っている人は」「最後の1日」)、「あるある」と「ないない」の行き来(「カステラ」「みちるちゃんの呪い」「亀ヶ谷典久の動向を見守るスレpart2836」「有名人」)全体を通してのインターネットやコンピュータと生身の人間の身体性の葛藤……
現実には存在しないシステムでも社会構造や人間の思考回路は現実とほぼ同じで、システムを通して人間が見えてくるSFが好きなのでそういう話が読めて嬉しい。
一番好きなのは「天才小説家・北見山修介の秘密」。2段オチの話、好き。小説だと共著、分業が考えにくいのなんでなんだろうね。
短編集なぶん「消滅世界」よりライトにサクッと読めるけど、本質は全く変わってない!時代に伴って人が「変容」していくことは「アップデート」「より良くなること」だと言い切れるのか?「多様性」「平等」「やさしさ」を重視し過ぎるあまり全体主義に陥り、かえって個性や自由が消えてしまう世界が「無性教室」「変容」で特に描かれていたと思う。「無性教室」はここから何か始まりそうな終わり方だったけど(「消滅世界」もどちらかといえばまだ何か希望がありそうなエンディング)「変容」には読者が予想しているであろう希望が見えてこない終わり方だったことに2010年代中盤〜後半で考え方が大きく変わってしまったことを感じる……。初恋の焼却は自分にも心当たりがあるので「秘密の花園」が一番好き。表題作「丸の内魔法少女ミラクリーナ」はバッタヤミーが脳裏をよぎる。
壁井ユカコ『サマーサイダー』(再)
地方都市の閉塞感、行き場のないモヤモヤを抱えた屈折した少年(大切な人のためにはがむしゃらになる)と鋭さと鈍感さを併せ持つ思春期の少女、日常の中に紛れ込む異常、「蝉」のグロテスクさや三浦が倉田に触れるときの艶かしさ……久々に読んだけど好きな要素だらけだな。学生3人にせよ千比呂にせよ、いろんな感情が遮断されて理性だけが残ってるのが狂気なんじゃないかと思う。綿矢りさの「ひらいて」とかもそうなんだけどあんまり明るくない学生の話が好き。
中島岳士『思いがけず利他』
「利他」とは「何か不可抗力に動かされるようについやってしまう」もの、「偶然性を持つ」もの、「受け手が『利他』と感じてはじめて作用する」もの、それゆえに「時間が経って作用することもある」ものという話。(先代)立川談志は落語に「業」の肯定(=人間の不完全性を認める)の要素があると論じたけどこれは空気階段のラジオやコント見てても思うこと。
浄土真宗、ヒンディー語特有の言い回し、土井善晴と民芸など色々な知識が出てくるが逐一丁寧な説明が入っててわかりやすい。
「自力に溺れている者は、他力(仏力)に開かれません。自分の力を過信し、自分を善人だと思っている人間は、『自力』によって何でもできると思いがちです。一方、『自力』の限界を見つめ、自分がどうしようもない人間だと自覚する人間には、自己に対する反省的契機が存在します。この契機こそが、他力の瞬間です。」
ヒンディー語特有の表現の「言葉が私にやって来て留まっている」っていうの、面白い。言葉は自分で生み出したものではなくて先祖が作ってきた文化、もっと突き詰めると神から人間に授けられたものだかららしい。そこが土井善晴先生の「『おいしさ』はやって来るものであり、『ご褒美』である」とも繋げられる。
利他と利己の切り離せない関係は、自分がボランティアに誘われた時にいつも思っていたことなので論じられててよかった。「行ってしまう気持ち」なんてのが自分にどれだけあるんだろうか。
「利他」に相反する概念として自己責任論がある。それを考えるにあたって、「自分という存在の偶然性」を考えるというのは大事だと思った。「もしかしたら自分が相手の立場で、自分がここにいなかったかもしれない」。「何かボタンのかけ違いがあれば自分はここにいないかもしれない」を突き詰めると結局自分の父、母、祖父、祖母……と血脈を辿ることにもなる。おじーちゃんおじーちゃんおじーちゃんおじーちゃんおじーちゃんおじーちゃんひいじいちゃん🎶(四天王/MAPA)
偶然性や運の軽視が自分への過信につながるというか、この辺は「自分で身の回りのことを何でもコントロールすべき」っていう理性崇拝への批判でもあるね。
偶然と運命はよくセットで語られるからその辺はどう思ってるんだろう?と思ったら「偶然性に伴う驚きを飼い慣らすようになる(何度も「偶然」の出来事に遭遇する)と運命と感じ、自分に与えられたものとして引き受ける」ようになるらしい。ほえー……
そうした偶然を呼び込むには自力を尽くして限界を自覚するのが重要ということで、「自力を尽くす」ができたとしても「限界を自覚する」の難しくないですか?
これは一年の時に読んでおきたかった!「起源、ルーツだけを見るのではなくて今に至るまでにどのような過程、ルートがあったのかを見る」が社会学に共通する考え方ってのは今はそりゃそうだって思えるけど社会学に足突っ込む前にこの前提があるかないかで飲み込みの速さがかなり違うと思う。あと唐突に(非西洋のルーツをもつ「ハーフ」で活躍してる人の代表として)莉佳子の名前が挙がっててビビったけど、アンジ「ェ」ルムになっとる!!!!!正誤表があるならそこも訂正しといてくれよ!!!!
公式サイトでも補足説明やおまけが豊富で嬉しい。個人的には「日中ハーフ」の事例で見られるような「民族、性別、障害など自分の意思でなかなか変えられないアイデンティティ要素に基づく自虐」が一番気になった。
ミュージカル「新テニスの王子様 The Second Stage」感想
※大楽の配信しか見てないオタクなので抜け、漏れ多数あると思いますご容赦ください
※うっすら原作のW杯準決勝ドイツ戦までのネタバレを含みます
- オープニング
- ROUND1 跡部・仁王VS毛利・越知
- ROUND2 石田VSデューク
- ROUND3 木手・丸井VS遠野・君島
- ROUND4 遠山VS鬼
- ROUND4と同時進行の出来事、回想
- ROUND5 真田・亜久津VS大曲・種ヶ島
- ROUND5と同時進行の回想、出来事
- ROUND6 徳川VS平等院
- エンディング
オープニング
冒頭が越前家から始まったので、「リョーガからリョーマへの想い」へ強く注目する意味合いなのか?とも思ったが割とその辺は原作通りだった。新テニは群像劇だけどあくまで主人公はリョーマということの確認なのかもしれない。
「チェンジ!チェンジ!チェンジ!」で始まるオープニングテーマを聴くと続投組(特に3rdからの平松來馬君)のパフォーマンスの安定感が増していることに気付く。高橋怜也くんはこんなフェイクまで歌えるようになってるのか!と驚いた。
コーチの歌で「目もいい 頭もいい 顔も体もエクセレント イケメンでごめんね」とか言われて出た!!久々のトンチキ歌詞だ!!って謎の感動が来た。最初に来るのが視力の良さなんだ……。
持って生まれた才能とたゆまぬ努力、両方揃って初めて「Genius」になる、これがテニプリ世界のルールなんですよね。才能に関しては多かれ少なかれ皆何かしら持っているという描き方をしているので、そこからどのように努力するかに比重が寄ってる感じはありますが。
やっぱり一軍下位戦もダイジェストでもいいからやってほしかった……ミュの世界でもあの子たちが生きてることを知りたかった……。
ROUND1 跡部・仁王VS毛利・越知
ここから何度か出てくる南次郎の「漫画じゃあるまいし」という台詞。かなり判断に迷うしTwitterでも賛否両論だった記憶があるけどいまだにどういう意図でこの台詞入れたのか掴みきれてない……まあこういうメタなことを言うとしたら中学生・高校生を一歩引いたところから見ている南次郎かコーチしかいないというのは、まあ、わかる……。でも貴方も「漫画じゃあるまいし」って言われるようなテニスしてたじゃないですか……って言いたくもなる……。
サーブ音が普通の音だけではなく越知のマッハサーブ、仁王が手塚にイリュージョンして打ったサーブとバリエーション豊富なのもこの試合のイメージを強めていたと思う。
どこかで見かけた「原則客席に近い方が有利で、実力が拮抗しているときはネット自体が回って演者も動き回る」を今更ながら頭に入れたので今まで以上に楽しく見れた。
跡部「いつまでも醜態晒してられっかよ!!」こういう姿勢ってともすれば焦りからの自滅になりかねないんだろうけど、そうならないのは彼に「俺は跡部だ 俺はキングだ」っていう一本芯の通った矜持があるからだろうと思う。りょやべは前回の新テニミュにも出ていたので「高橋怜也くんが演じる跡部景吾」が跡部VS入江戦で得たものも考えるシーンだった。
仁王の中で手塚像が無印のVS不二の時以上に固まっていることを感じる。手塚ってもうテニスの世界では偶像なんですよね。仁王だけじゃなくて不二、跡部、真田などなど手塚を強く意識するキャラは沢山いるけれど、それぞれが自分の中に虚像としての手塚を抱えていると思う。
「手塚の心」はそれがよく表れていたと思う。「痛みがなんだ 俺は我慢した」ってまるで手塚が我慢していたかのような言い方だけど、多分あの時の手塚って「我慢しなければ」という気持ちで動いてるわけではないと思うんだよな。青学を勝たせるためにはそれが当然のことだと思って行動してる感じ。イリュージョンした手塚≠本来の手塚国光ってところは、仁王のイリュージョンは相手の心理を読み取る観察力+感情の想像力がベースなのが出てるんだろう。あと仁王はそんなにメンタルが屈強な方ではないので、自分を鼓舞する気持ちもあった気がする。
そして満身創痍になる跡部を庇って試合に介入する樺地。このシーンは樺地が跡部を想って(たとえ跡部が望まないことでも)やったことに意味があるんだよな……。
仁王(手塚)も樺地も失って……ここで出てくる跡部の「ワンマンパワー」という言葉が切実だった。それでも「自分がキングであることへの自負」が何度でも彼を奮い立たせる。そこで見せたシンクロでの「すぐにできちゃうなんて俺たち天才じゃん」、このイキリ方が中学生で笑顔になった……😁でもこれ二人ともギリ言わなさそうなのがミュ特有のズレだとも思う。
イリュージョン含めて仁王のテニスって「実現不可能なものを可能にする」意味合いが強い(乾の夢の中だけに現れたメテオドライブの実現、カミュ&デュークダブルスの実現など……)と思うのであり得ないはずのシンクロができてしまうのも納得。
ここで跡部・仁王が勝って「しまう」こと、越知・毛利ペアは100%の実力ではなかったことは、強さを見せながらも負けた側の格を落とさないテニプリらしい演出と再確認した。
ROUND2 石田VSデューク
原作通りあっさり終了。原作ではインパクトある大ゴマで印象を残していったけど、ミュでは本当にあっさり印象薄く終わってしまったので、(流石にデュークホームランを生身の役者でやるのはほぼ確実に不可能とはいえ)舞台表現の限界みたいなものも感じてしまった。
ROUND3 木手・丸井VS遠野・君島
原作でもGenius10編ではこの試合が一番好きなのでどうなるか結構期待していた試合。
急にキミ様ショー始まるかと思ってビビった。アニメでもひと昔前の歌謡曲とかディスコソングっぽい歌が多いけどミュでもそういうイメージなんですね……
この1軍VS2軍は「テニスには体力や技巧だけではなく相手の意図を探ることや安定した精神力も強く求められる」ところを押し出してると思ってるんだけど、その究極系がこの試合だと思った。この試合は2VS2(通常のダブルスとしてスタート。通常のダブルスって何?)→3VS1(木手→ブン太の裏切り)→2VS1VS1(さらに裏切る木手、ワンダーキャッスルの完成、遠野の孤立)という展開で進む。それをライト運びで明快に表現しているのがとても楽しく、ここに関しては期待を超えてきたと感じた。
遠野・君島がダブルスを組んでいながら絶対にデュエットでは歌わないのもちゃんとこの時点での「表向きは一緒のパートナーだが(主に君島が一方的に嫌っているので)全然仲良くはないし信頼関係もあってないようなもの」っていう二人の関係を表してて嬉しかった。(正直これでデュエットしてたら解釈違いだった)
木手と亜久津の暴力性は種類が違うよなとも思う。手段としての暴力と結果としての暴力だと思ってる。
そして遠野がめちゃくちゃいい!下瞼を赤くして地雷メイクっぽくしてるのも原作にはないし今までのテニミュでもほぼ前例のない表現だと思うけど、遠野の漫画的表現を生身の人間でおこすのにぴったりの2.5的表現だと思った。小声で処刑はサクッとーサクッとーって歌ってるのおもろい。こいつならやりかねん。現実に処刑がなんだってデカい声で言いまくってヨロレイヒー!!って叫んでる人がいたらドン引きするけど、なぜか不快感がなかった。でも一人で勝手にハイになっていくのに反比例してベンチで引いていってる中学生・高校生たちは正しい反応だった。この遠野と君島でフランス戦での和解まで見たい。
今回のブン太は原作より「無邪気な子供」っぽいと思った。確かに立海の中にいると勝つためにゲームメイクや技巧にもこだわりを見せるギラついた側面が強調されるけど、そこを離れたブン太が「無邪気な子供」かと言うとあんまりそうでもない気がする……(後輩やジローに対するお兄ちゃんムーブ、同級生に対しての陽キャ中学生ムーブのイメージが強い)。ワンダーキャッスルの歌も割とポップだったし。たしかにそのギリギリの状況でも漂う軽さ、お茶目さもブン太の魅力ではあるけれども!パフォーマンス面でもまだまだ伸びしろがあると思うのでこのブン太が関東立海に出たときどんな感じになるか見たいと思った。
今回テニミュボーイズでもジローがいなかったからここで言及するのもアレなんだけど生身の人間で見ると木手はブン太に対してなかなかにえげつないことやってることを再確認してしまったので、ジローはこれ見て何を思ったんだ……しばらく木手のこと警戒してない……?みたいに思ってしまった。(ジロー推し)
ROUND4 遠山VS鬼
鬼先輩VS金ちゃん戦はこっちまで笑顔になっちゃうよな!天衣無縫はほんとに楽しそうにやるから良い。ミュが持つ演者の身体性がめちゃくちゃ生かされてるのが天衣無縫だと思う。
越知+毛利+君島でなんか肩組んでるしベンチの千石可愛い〜〜木手が仁王に遊ばれたり小さくダンスしたりしてるし師範がブンブン腕上げてるのも好き。そんな中一人だけ幸村が苦い顔してたの、まあ確かに無印のリョーマ戦踏まえて描くならそうできなくもないけど原作では「あのボウヤ いい顔してるね……」と(内心思うところはあるのだが)表向きはつらそうな表情は見せずに言っているところなので、どういう意図があっての改変なのか気になった。
金ちゃんの天衣無縫は負けても苦しくても、何があっても何がなくてもテニスは楽しい!の天衣無縫なのよね、鬼先輩のは守るべき存在がいるからこそ心から楽しもうと思える天衣無縫。
ROUND4と同時進行の出来事、回想
・平等院VS鬼(二年前の回想)
兵庫出身の平等院に岡山出身の鬼先輩(そして京都出身の入江、種ヶ島)がいるこの代、西日本テニス界相当盛り上がるんだろうなと思った。
この歌唱力めっちゃ高い人たちが全く違うメロディを歌って一瞬だけ重なり合うの、これを見るため聴くために生きてたんだなってなる。(関東氷帝の一騎打ちもそう)
・越前兄弟&亜久津
リョーガと亜久津のやり取りがダンスバトルっぽくなってたところが良い演出だった。二人の「天才」感が出てる。でもここで出てるリョーガの「たかがテニス」って言葉、最新の展開から自分の能力に後ろめたさを感じてるのでは……?と深読みしてる自分にはしんどかった。
ROUND5 真田・亜久津VS大曲・種ヶ島
なんで巌流島?とずっと思っていたんですが、色々な人の感想を読んでやっと「大曲の二刀流+種ヶ島の『無』で宮本武蔵をイメージしている」ことをようやく理解できました。
今回の真田、どうしても亜久津や幸村と体格を比べてちょっと威厳が足りないのでは……?って思ってしまったけど、「黒色のオーラ」聴いてると別にそんなことないなと思った。真田の本来の性質はこの試合で見せた(亜久津が引き出してくれた)闘争心剥き出しなところにあると思ってるので、その側面を見せるという点でかなりよかった。関東立海でリョーマと鍔迫り合いしたらどうなるんだろう。
そして話題の𝒏𝒐𝒕𝒉𝒊𝒏𝒈……。アニメ準拠のキャラソンは明るくアップテンポな曲ばかりなのでこんな音数も少なくて静かな曲が来るとは思わなかった。技巧と役に入る力両方合わせた歌唱力で音の穏やかさ、音数の少なさをねじ伏せてきてる。アップテンポな曲とかロングトーンを強く歌い上げるタイプの曲だとパワーで押し切ることもできるんだけど(だからこそテニミュにはそういう曲が多いのかも)、真逆を行くスタイルだった。これは照明もすごくよくて(暗い中白いライトで照らしてる、今まであまり見なかった演出だと思う)、一瞬時間が止まったのかと錯覚するようだった。
そしてこの途中に挟まれるのが亜久津と千石の回想。この時の千石は亜久津のことをちゃんと見てて、ただの運試しのふりしてテニスへの未練を残している亜久津が無意識のうちに求めているであろう条件を出してると思ってるんだけど、それをきっちり舞台上で表現しきった千石をテニミュボーイズにしておくの勿体ない……4thにも出てくれ……と思いながら見ていた。実際は違う人に決まったけど。
結果だけ見ると中学生がボロ負けしてて、改めて高校生の強さを見せつけられることになるこの試合だけど、大曲先輩の真田や亜久津に対する態度を見るとなんか後腐れなくなるんですよね。
余談ですけどこの試合中ベンチで仁王、ブン太がウサギやったりギャルピースしたりしてるの、マジでいつもの中学生のノリって感じでしたね。
ROUND5と同時進行の回想、出来事
・徳川、鬼先輩、入江の回想(またの名を医務室コント)
泰江奏多は「ありがとー💞」といい「こういうの嫌い?」といいめっちゃあざといことがわかった。演者がこういう感じで遊び心を出せるのはミュージカルならではの旨味ですよね。特に入江はダブルキャストだから両者の違いを楽しむこともできるし。
・越前兄弟
回想を一曲の中に入れ込んだの、こういう演出を見るときっちりミュージカルしてるな!と思う。(4thくんならちび越前兄弟の回想だけ見せてから今の二人が現れてバラードを歌い始める……とかやりそう)
ROUND6 徳川VS平等院
「俺は強くなり過ぎた この確信は揺らがない!」と言うほどに強さだけを磨き続けてきた徳川と、自分の精神の強さをコントロールしてあえて不利な状況に追い込みさらに強くなろうとする平等院ってのが見えてると、やっぱり平等院の方がワンランク上なんだなと思う。
未だに具体的になんなのか説明できる自信がない「阿修羅の神道」を鬼と入江の歌唱力で「なんか すごい つよい」と思わせてしまうあたり、2.5だろうがミュージカルは歌が上手いことが何より大事という当たり前のことを思い出した。
原作ではオタクの間で「スタンド攻撃喰らってる」とも言われてるあのシーンをどうやって表現するんだ……!?と思っていたが、(私の予想は「テニミュボーイズを海賊のイメージとして登場させる」)まさかのG10メンバーが仮面をかぶり海賊になるとは!!原作のドイツ戦での平等院VSボルクの表現を踏まえるとここは激アツだった!!
一方ブラックホールは徳川のプライドと挑戦する覚悟を感じつつも入江や鬼が後押ししていることで平等院陣営との対比も感じた。
そして、平等院の言う「世界は広ぇぞ!!」は新テニそのものを表す言葉でもあると思う。高校生に出会って世界を広げる中学生、海外選手に出会って世界を広げる日本代表……。
エンディング
First Stageの時はモヤってたディスタンスとようやく和解できました。
恋クラの歌詞の古さというかダサさで私の中で逆にディスタンス再評価の機運がきてるんだよな。「今は離れているけれど 心の中でハグしてる」とか時勢意識して作られたんだろうなと思いつつふわっとしたことしか言ってないから次回以降もずっと使えるし。
— レタス (@__Lelelettuce) 2022年3月28日
あれが前回一回きりのサービスナンバーだったら自分の中の印象がこう変わることはなかったと思う……。今後テニミュでお見送り会や客席降臨またやってくれるかにもよるでしょうけど……
— レタス (@__Lelelettuce) 2022年3月28日
前回はおいテニミュですらそんなこと言っちゃうのかよ……😢みたいな気持ちだったんだけど今回はシンプルにワイワイするテニスの子らをこらこらはしゃぐなはしゃぐなwwwwwwって気持ちで見れたんだよな
— レタス (@__Lelelettuce) 2022年3月28日
テニプリの世界では流行り病など存在しないのでテニミュですらそんなこと言っちゃうんですか……ってメソメソしてたんですが、感染状況が比較的落ち着いた状態だったからなのか今回気にせず見れました。前回はあった私服登場コーナーがなかったのはちょっと残念でしたが……
レボライで!!また会おう!!!!!
黒魔女さんが通る!!出戻り新規オタクの記録(6年生篇1~10巻)
みんな~!児童書の出戻りオタクになったことはあるかな!?
お姉さんはあるよ!!!!!!!!!!!!!!!!!
こんばんは。大学生の春休みは無駄に時間だけは長い癖にお金は足りないのです。そんな私が何をするかというと図書館に行くんですよ。そこで出会ってしまったわけです。「初恋の人と数年ぶりに再会してしまった」みたいなノリですよね。そんなわけで黒魔女さんが通る!!出戻り新規オタクの記録を残しておこうと思います。
※CP名やCP萌え発言が乱発します
はじめに
寡聞にして6年生に進級していること、大形くん絡みの問題に一応の解決の糸口が見えそうなこと、麻倉と東海寺の祖父が活躍するスピンオフが出ていること、何も知らなかった。あの頃ページをめくった時のワクワク感を思い出しつつ、当時とは違う視点の楽しみ方(おかげさまでクソオタクに成長してしまったので、カプオタの視点になってしまう)も味わえたらと思う。このシリーズがまだまだ現役小学生に愛されていることそのものに感動してしまった。15年以上続いているシリーズなので、そりゃあ小学生も大学生になるわ。もしかしてもう「親子で黒魔女さんを楽しむ」世代なんてのもいたりするんだろうか。
1-2巻
相変わらず石崎先生のファンサービス力や親父ギャグやメタ発言や痛快な起承転結が爆発していて「久しぶりに帰ってきた地元」のような安心感がある。チョコがギュービッドの影響受けて日常会話でも親父ギャグが出そうになってるところでニコ!!ってなった。君ほんとに「魔力を捨てて普通の女の子に戻」れるのか??麻倉VS東海寺も健在だし、他のクラスメイトも私が読んでた時と全然変わってなくてめちゃくちゃ安心した。けど大形くんだいぶ積極的に助け舟出すようになってない!?しかしまさかのまどマギのもじりネタ出てきた上に「放映はもう何年も前」って言われてて泣いちゃった。児童文学の子供がわかるか怪しいパロディネタに気付いてニヤつく日が来るなんて……。ちなみに桃花ちゃんが好きです。あと一路舞ちゃんにはもっと肩の力を抜いてもらいたい、姉になって愚痴も弱音も全部聞いてあげたい(キャラの年齢を追い抜いて初めて気付くこと)
あと、児童文学特有の「基本1話完結で、横の繋がりをいろいろいじりながら少しずつ縦軸を進めていく」方式、「いつか読むのを卒業する」本来の読者をターゲットにするにあたってめちゃくちゃ理にかなってるんだなと思う。
3-4巻
百合ちゃんのぶりっ子嫌味、舞ちゃんが凛音に対しどうでも良さそうな態度を取ってる……この辺のリアルな小学生の性格の悪さが黒魔女さん(特に初期)って感じがした。メグがバリバリに自己肯定感高くて自己顕示欲強いだけのかなりいい子に思えてくるよね。
個人的に鈴木薫さんの「ウンチク披露」舞台装置ではない生身の人間としての気持ちの動きがわかる回で嬉しかった。重くんを一番近くで見てるから誰より心配してるんだよな。重くんが彼女連れてきた時に誰よりも動揺して「恋とは、〇〇で〇〇なものである……」とか恋愛関係のウンチクを呟くことしかできないしそんな時に限って「ねえちゃん、すごい!」がないもんだから余計に調子狂う二次創作が、読みたいよ〜〜〜!!!!!!(未来捏造100000%)けど男女双子が好きなの確実に鏡音リン・レンの二次創作がルーツって気付いて地味にダメージ食らった。
疑似的に麻チョコ+東チョコのバージンロードを実現さすな!!!!桃花ちゃんが人間界の同級生にベタ惚れの恋愛体質なの意外だな……子供っぽい見た目だけど一応魔界年齢的には割といい年でしょ?(王立魔女学校に入れるのは17歳で3年間在籍なので)魔界の人型種族と人間界の人間の年齢はイコールじゃないってこと?魔界は時間の流れが違うからか(解決)改めて思うこととして、基本女子は「男子ってバカだなあ」の視線で、男子VS女子で定期的に意見が割れるのも小学生って感じがする。中学ぐらいで緩やかに変わっていって、高校でそのノリが(表向き)完全に鎮圧されるイメージ。ずっと公立共学、高校は進学校しか見てないので他のことは知らん。
5巻
終始チョコちゃんからギュービッド様に向けられるBIG LOVEだった……絶対離れたくないからこそ自分の過失にもちゃんと目を向けて問題解決への強い意志を見せるの、これが愛じゃなければ何と呼ぶのか……(突然の米津玄師召喚はNG)
ちょっと抜粋するだけでも
「でも、ギュービッドが、やさしいのはたしかです、はい。」
「あたし、競争とか好きじゃないし、一番でもビリでも、ぜんぜん気にしないタイプだけど、ギュービッドさまの悪口だけはゆるせませんっ。」
「それより、ギュービッドといっしょにいることのほうが、ずっと、ずっと、ずっと、だいじなことなんだよ!」
これだけある……もともとチョコが絆されやすい性格ってのもあるけど、ここまで来ると(というか5年ハロウィン〜クリスマスあたりでもだいぶもうアレだったが)完全に自分の意思を貫いてるよね。
あと5年生編最初の魔界行き長編が林間学校→シンデレラのパロディ、6年生編最初の長編が修学旅行→白雪姫のパロディでセルフパロディになってるのが熱い。
魔界行った後の大形が王子ポジションなのも変わらないけどその意味がだいぶ変わってるよね。シンデレラの方で魔界の妃にするって言ってたのは駒として利用する側面が大きかったと思うけど、多分6年生になってからは「チョコを心の底から信頼してる」「チョコが恋愛的に好き」って気持ちも結構入ってる気がする。「それに、魔力はぼくのほうが上だねぇ。だから、守ってあげたいねぇ。」辺りも、魔界支配のための言葉とはいえあながち嘘でもないんじゃないか?あっても「嘘はついてないけど本当のことも言ってない」ぐらいのラインでは?
個人的には5年生編よりもガンガン縦軸が動くのは嬉しい。卒業で完結させるゴールに向けて逆算してるんだろうか……?
あとちょっとしたセリフで引っかかったのは「でも、そんなに幸運な黒鳥さんが、なぜ黒魔女修行をさせられてるの?」かな。色々見る限り人間で黒魔女(黒魔法使い)の素質があるのって人を憎んだり恨んだりする気持ちの強い子(大形もその素質を早い段階で見抜かれてるし、このセリフを言った幸野さんもそういう傾向がある)っぽいけど、チョコは深い友達付き合いや流行はどうでもいい陰キャ寄りのタイプだけど決して情がないわけじゃないし、家族やクラスメイトにも恵まれてるし、チョコから誰かを恨むようなこともないし……ティカからの遺伝で魔力継承してるのはわかるけど、なんで実の子であるチョコの父親も開花しなかった魔力がチョコで開花したのかはたしかに引っかかるな……。
そんで後書き!!後書きでサラッと重大な情報を出すな!!!舞ちゃん→エロエース!?!?!?!?!?!?後書きにそういうこと書くのやめてもらっていいですか!?!?!?!?!?!?!?(有識者曰く無印からフラグ立ってたらしいです。確認します)
これでチョコ関係以外で明らかに恋愛フラグ立ってるのは
百合ちゃん→ショウくん
舞ちゃん→エロエース
灯子→獅子村
雷香→与那国
になるのかな。どうする?出雲くん→舞ちゃんの矢印が発生してて出雲くんが舞ちゃんがエロエースに向ける気持ちに気付く時が来たら。あんなのじゃなくて自分にしろよって思うけど本当に自分のことを見てたことがあったか?って1人で考えまくる回。いやでもエロエースがめちゃくちゃ動揺する回も見たいな。ショウくんみたいなのが好きかと思ってたからまさか舞ちゃんが自分を好きになるはずないだろうって思ってすれ違いまくるとか。
個人的に与那国×雷香はかなりいいカップルになる気がするんですけどね。6年生になってから恋愛フラグ立ちまくってるので誰が最初にくっつくかダービーをするしかない。
6巻
6巻はいつも通りの短編3話と思いきや予想外の不穏な展開を匂わせる話ばかりで、無印のハロウィン編直前の空気も彷彿とさせる。
大形のモノローグでスタートだったし本格的に大形問題に蹴りをつけに行く感じですね。何度も改心フラグ立ててはへし折ってるので今度こそきっちり更生してくれそうな匂いがしてよかった
「ただし、黒鳥さんだけはべつ。だって、低級だけど、黒魔女の黒鳥さんは、ぼくの気持ちをわかってくれたから。たまには、ぼくのことをしかったりもしたけれど、でも、いつだって、やさしかった。」
これ読む限り大形からチョコへの感情は恋心というより子供から保護者に向ける感情とかの方が近いような気がしてきた。母性(?)を求めているような感じ……
更生後の暗御留燃阿さんの贖罪に触れる内容でマッコト嬉しい。無印13巻で唐突に更生して大友の間では賛否両論らしいので再読しないと……。でもよりにもよって暗御留燃阿さん本人から大形を「魔物」呼びするのはいくらなんでもキツ過ぎた。自分の責任を感じてるとはいえ一番言っちゃいけない人だろ。
そして麻倉家のお誘いでウミダー!(トウカイテイオー)
豪太郎さんと迦楼羅さん、今も毎年お盆に別荘の隠し部屋で会ってんの!?!?!?!?先に迦楼羅編読んでるオタクとしてはヒイヒイ言ってる。しかも講談組は一代で終わらせる……?(現実的に考えるとヤクザとおもちゃ会社の社長なら断然後者の方が孫のためにはなるだろうけども)孫たちはそれ知ってんのか……???
「おまえを助けるのは、あたしだ!なんのために、インストラクター黒魔女がいると思ってんだよ!」やっぱりギューチョコはそうこなくっちゃ🎶ギューチョコの強い絆で結ばれた師弟関係(疑似姉妹関係でもある)は無印ハロウィン以降黒魔女さんを黒魔女さんたらしめる不可欠の要素だよね。人を不幸にさせる黒魔法なのにそれで「これを使ってやり取りした2人はだんだんお互いを好きになっていく」効果のある「好感メモ蝶ふせん」を作るのがチョコらしい。
そして無から生えてきた大形のおじいさん大形京太郎さん。黒魔女の世界では「霊なんていない」ことになってるけどじゃあこいつは何者?魔界関係者?いまだ大形の出自が謎だけど京太郎周りの情報が全部事実ならこの作品、祖父母の代から何か継承した(継承しようとしている)子供多くない……??ジョナサンとジョセフ??そんで「京と黒鳥さんは、ながーいつきあいになるかもしれんでな。」って何?本格的に京チョコ√で固めにきた??
7巻
マリアのカンフーもおばあちゃんから伝わったもので、やっぱり黒魔女さんって祖父母→孫への継承多いですね??ってなった。
ギュービッド様の「悪魔の証明」もこれ前巻のラストで魔界行き長編フラグか?と思ったら割とあっさり目に人間界でチョコ・桃花で工夫を凝らして解決してしまったので、チョコたちの成長もそうなんだけど作品自体の積み重ねた時間みたいなものを感じてしまった。同じような展開ばっかりするわけにもいかないもんな……
しかし東海寺にもちゃんと霊力があることがきっちり証明されてしまったので、ますます黒魔法と陰陽道の関係性や違いが気になってきた。黒魔法は悪魔の力を借りてて魔界の月が源流で、陰陽道(白魔法?)は神仏の力を借りるという解釈でいいんだろうか。
一級黒魔女を目指すとなると魔界そのものの歴史やシステムについても学ぶことになるんだな。作中でもまだまだ明かされてない部分が多いと思うのでそこが知れるのがありがたい。王立魔女学校は三級相当で入学して一級か初段相当で卒業でしたっけ。
「小島くんのオオカミ役を受けとめられるのは、あたしぐらいだと思うの。」←!?!?!?!?!?!?エロエース←舞ちゃんのフラグガンガン立ててきますね。しかももうクラスのほとんどが気付いてる。チョコが誰ともくっつかず大形も麻倉も東海寺もチョコなしで各々の人生を歩むことになってもこの二人はくっつくだろうという謎の自信がある。
学芸会のアイデア出しに関してのリアクションで、「でも、だれひとり、学級会をやめようとせず。こういう『クラス一丸となった』ふんいき、すばらしいと思う人もいるのでしょうが、あたしは正直、つかれます。はい……。」こうなるの初期チョコっぽい。なんだかんだクラスメイトへの思い入れみたいなのは初期より増してるとはいえ「独りが好き」のベースは変わってない。
8巻
無印で桃花ちゃんが使っていたワンニャンプリターをチョコが使えるようになってるの感慨深い。メタな読み方にはなるけど「前章の要素をなぞりながら新展開を出す」のが好き(ちなみに新テニはこれのオンパレード)なので嬉しい。
しかし死霊だの魔女だのに付け込まれてエロエースも災難だな……一生懸命英語も勉強したのに……
「おまえとあたしは、心と心でつながってるんだからな。」←安定のギューチョコ。
「最強の能力でなんとかする」展開より「ひらめきや工夫で乗り切る」が好きだからチョコのこういうひらめきが活かされるの好きだな。同じ理由で二級昇格の時に作ってた好感メモ蝶ふせんも好き。
魔女学校物語はまだ読んでないからマガズキンさんへの理解を深めたい
未来予想図回、珍しく松岡先生がまともなことを言ってるぞ!!
とうとう黒魔女さんでも中学受験が話題に出るようになったか。東京が舞台だしかなり私立校も身近なんだろうね(田舎すぎて全員地元の中学に進んだ人)
でもこんな軽いノリで友達受験に誘うもんなんですか?6年生から勉強し始めても間に合わないみたいなことも聞くし、どっちかが落ちた時どうすんだ
各々が夢を語る中でミスコン/ミスターコン廃止問題にもちょっと触れてるな。初版2019年か。
「ねえちゃんも、ミスコンで優勝できるぞ!」
重くんのひとことに薫さん、お顔が真っ赤。うるわしい姉弟愛です!
↑こういう男女双子はいくらあってもいいからね 中学生あたりで関係性が一旦離れるのも好(ハオ)この二人は同じ中学に行くつもりなのだろうか……??
ショウくんモデル志望でジュノンボーイ受けるつもりなのか。仮面ライダーにも出てくれ
ギュービッド様だいぶまともに漢字書けるようになったんだな……影響受けてるのはチョコだけじゃないってワケ!?
「そりゃそうだよぉ。チョコとあたしは幼稚園のときからのくされ縁だもん。チョコがこまっていることぐらい、手にとるようにわかるよぉ。」←メグチョコの波動を感じる
大形「純粋な小学生には、大学生は大人に見えるだろうけど、大人からすれば、大学生なんて、ヒヨコみたいなもんなんだよ。」
大学生俺様「それはそう。」
京太郎のツテで呪リア学園でのバイトをしてるみたいだけどだとしたらやっぱり京太郎は魔界の人??魔界の血をひいてる孫ってそこまでチョコと同じなのか??
魔界のミスコンの景品が人間の子供(弟子にするもよし、メイドとしてこき使ってもよし)って魔界の倫理観というか種族間の立ち位置の違いってどうなってんの??流石に児童文学だしこの辺を深く掘り下げるわけにはいかなさそう??
ボウリングの起源初めて知った。石崎先生こういう一見無関係に見えるところからも知識引っ張ってくるのがすごい
「黒鳥さんは、もっと自信をもたなくちゃだめだよ。黒鳥さん、そのままでも、かわいいんだし。」
「かわいいだけじゃない。黒鳥さんは、自分で思っているよりずっと、いろいろできる人なんだ。少なくとも、ぼくはそう信じてる。だから黒鳥さんも自分を信じなきゃ。」
ホア……ここで出てくる「プチメイク魔法」の話させてくれ。プチメイク魔法は存在しない魔法だけどあのとき確かに大形はチョコのことを思って優しい嘘をついたんだろうし、それによってチョコは勇気付けられた。このくだり、短いけど確実に魔法って言葉の本質をついてる気がするんですよね。誰かを想って発した言葉が誰かの心に作用する。大形が改心したのも今度こそマジっぽいな。
後書きコーナー、いつも「小説家のうちへ遊びにいこう」なんだよな
9巻
無印のハロウィン編が出た頃(2007)と違ってハロウィンが大人にも子供にもポピュラーなイベントになったことがちゃんと反映されてる。
「だって、映画に出てくる吸血鬼はイケメンって決まってるからね。」ショウくんの自信清々しい……
石崎先生、小ネタで地獄少女出しがち
東海寺も麻倉もちゃんと「うんこで笑う小学生」なんだな……
当麻明菜さん、CV能登麻美子感すごない?
ギュービッド様の裁縫うまい設定久々に出てきたわね
ハロウィンでいつもと違うゴスロリ着るのも無印のセルフパロディ!あの衣装も好きだけど今回のも可愛い
「ところが、面接のとき、大形は、おねえちゃんのことばかり話したらしくって。」あっハイ……
「ふふふ、ほんわかして、あったかくって、気持ちいい。やっぱり、あたしのインストラクター黒魔女さんは、ギュービッドさま以外、考えられないよ。」うん???この状態で本当に「魔力を捨てて普通の女の子に戻」れますか??
チョコ+ギュービッド+桃花+大形で小学生らしい遊びしてるのもなんか嬉しいな……
「なになに?『閻魔あいになーれ』。あ、じゃあ、これは……。」
エロエース、まじめなお顔で、舞ちゃんのもとへ。
そうしたら、舞ちゃん、ほっぺをぼうっと赤くしちゃって。
「ありがとう、小島くん。おぼえていてくれたのね。わたし、ぜったいにすてきな地獄少女になるわ。」
↑エロエースも満更でもない感じなの!?!?
保健室のみな実先生ってもしかして田中みな実が元ネタ??
大形は「6年1組のメンバーと楽しい思い出を作りたい」けどそこに魔力を持ち込もうとしてゴタゴタが起きるのは揺るがないんだよな……
10巻
「ブラック大形」って自分で言うのちょっと草
「そんなことだから、授業中にまで、大形のこと、チラ見し続けて、インチキ霊能者とヤクザの組長の孫を、キレさせちまうんだよ。」←え??
!?!?エロエースと舞ちゃんでカラオケデートしてたんですか!?!?!?!?、?!?
与那国くんボカロも使えるのか……たしかに声変わりはつらいけれども……
チョコの星座石が黒曜石で魔界での意味が「まわりに不幸をもたらす」かあ……前巻の聖ウリエル学園祭見学回とか6年生編だけでも思い当たる節はあるけど……なんだかんだ解決してきたじゃんね
でも誕生石はトルコ石で「他人の不幸を助ける」か……周りを不幸にしてしまっても助けるだけの力と優しさが備わってるってことね
ダイヤモンドには「戦いのとき大事なものを守る力」かあ……クレイジーダイヤモンド……
良子ちゃんからさらっと「仮面ライダーのおもちゃ、うちの会社で作ってるんだから。」って言ったけどバンダイじゃねーか!そんな規模だったんだ……
麻倉と東海寺はやっぱり対大形で共同戦線張ってたのね……
「黒鳥さん自身が黒曜石なんだ。生まれつき土星の魔法石の魔力を秘めているんだよ。」うん??
「だって、口ではどんなにこわいことをいっていても、あたしを見つめるひとみだけは、いつだってきれいにすんでいたから。」
まだ大形の意図が掴めない!!
泡多田志井子さんの隣の席に、なりたいよ〜❗️(野田クリスタル)
みんなも黒魔女さんが通る!!を、読もう!!