新緑ノスタルジア

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「リョーマ!The Prince of Tennis 新生劇場版テニスの王子様」感想・考察・妄想

※特別お題「わたしの推し」に参加してます

 

※「新テニスの王子様」単行本35巻のネタバレが発生します

 

今年はブログを書く件数、頻度共にガクっと落ちてしまった。具体的に言うと放置されたブログと見なされ広告が出るぐらいである。見たもの聴いたものに関しての感想自体はあるのに色々とTwitterで済ませてしまうことが多く、後で遡ろうと思ってもなかなか見つからない。ブログは「誰かに読んでもらうため」というよりかは自分自身の記録の放流として書いているのだが、こうなってしまっては本末転倒である。

そして、この記事も本当は鉄は熱いうちに打て精神で私的ラスト鑑賞後すぐに書こうと思っていたのだけれど、その後本誌で起こったまさかの展開も盛り込もうとしてたらずるずるとこの日までずれ込んでしまった。

そんなわけで今年最後のブログです(まあまあ不本意)。公式サイトは↓へ。

gaga.ne.jp

 

パワープレイの皮を被った最大公約数としてのオープニング

本作は、これまで描かれてこなかった「テニスの王子様(以下「無印」)」と「新テニスの王子様(以下新テニ)」の間の三か月間を描く作品である。「原作未読でも楽しめる」という触れ込みのもと、「これまでのあらすじ」的な要素も、要所をかいつまみつつ全体を拾っていくと思っていた。上演前までは。

しかし、本編が始まって30秒やそこらで「Dear Prince~テニスの王子様たちへ~」の軽快なメロディと共に、天衣無縫の極みに覚醒したリョーマと無印のラスボス・幸村の戦いがダイナミックなカメラワークで描かれる。そして驚くべきことに、そのサイドではチームメイトや観衆が歌に合わせてダンスしているのである。

「なんだこれは!?」という驚きと同時に、「ああこれがテニプリだ……」という安心感もこみ上げて来ていた。

この「Dear Prince~テニスの王子様たちへ~」は無印でも最終回、リョーマVS幸村戦が終わり、すべての戦いに幕が下りた後にエンドロールのようにコマに歌詞が載せられているのだが、その印象を引き継ぎながらも、「見たことがないはずなのに見たことがある気がする」新たなシーンとして、本編に対する読者の記憶と記録を圧縮しわずか3分足らずの尺で昇華していた。しかも、ただ映像を見ているのではなく、映像・音楽が融合したエンタメ「体験」としての充実感も申し分ない。繰り返すが、まだ冒頭3分足らずの出来事である。

「説明感」を極力脱臭しながら「こういう作品ですよ」という説明、つまり「無印」との接続点として描く最大公約数となっていたリョーマVS幸村戦の再解釈だった。

ちなみにここのテニスシーンは、アニメやミュージカルでも表現の難しかったボールの回転や空間全体の立体感、広がりをうまく表現していて、こだわりが感じられる。テニスじゃないなんでもアリだとインターネットのオタクどもにいじられていても、そうしたトンデモ展開と矛盾なく両立するテニスへのこだわりを感じる*1、そうした所も「圧縮された」テニプリの素晴らしいポイントの一つだと言えよう。

テニプリ世界においてテニスとは何なのか

結論から言うと、テニプリ世界におけるテニスは「コミュニケーション」である。「テニス語」という言語なのだ。しかも、言語や立場を超えた究極の形として描かれる。2パターンある本作のうち「Decide」では、リョーマと手塚の関係を通してその形が強調されたように感じた。*2

リョーマ、手塚は同じ学校の部長と新入生という立場でありながら、この二人が長く言葉を交わすシーンはほとんどない。かの有名な「お前は青学の柱になれ」以降、リョーマはその言葉に対する答えを、言葉よりもテニスのプレイで返してきた。そのうえ、無印42巻末に収録された青学の卒業式統一を描く小説(許斐先生作)では、手塚の卒業間際であろうがお構いなしでテニスの試合を持ちかけてくる。それほど、彼ら二人にとって最高のコミュニケーション手段がテニスだったのだろう。

「Decide」でも、父・南次郎に電話をかけようとするとなぜか不思議なパワーで時空を超えて現代の手塚に繋がってしまう……というシーンがあるのだが(おそらくこのブログを読んでいる人に「リョーマ!」未見の人はいないと思うので詳細を省いて起きたことそのままを記述しているのだが、未見の人にとっては何のことだかさっぱりわからないシーンであることを文字に起こすことで再確認してしまった……)、そこでも手塚が窮地のリョーマに贈った言葉は、

「ただ一つ……テニスを思い出せ越前!!一番苦しい時、リターンはどこに打つ?」

である。

この二人が打つ一球には一体どれほどの意味が込められていたのだろうか。これからどのような意味が込められていくのだろうか。ほんの短い言葉ではあったのに、この二つを感じ取って、胸が熱くなった。

また、「リョーマ!」の物語における起承転結*3のうち最大の「転」の一つであるリョーマとエメラルドの勝負であるが、そこでもまたテニスが「コミュニケーション」として作用している。

二人の歌う挿入歌「DANGER GAME」が劇場中を沸騰させるほどにテンションを上げていく中で、言葉を交わさずとも互いの熱意がラリーされていく。このことについて、的確に言い表している人がいた。

テニミュの初代リョーマ役でお馴染み・柳浩太郎さんである。

これがあまりにも的確過ぎてもう自分で書くことねえなと思いつつ自分なりに書くと、(劇中でその点について詳しく触れられることはなかったものの、おそらく「女性であること」や「マフィアの子であること」などが足枷となってかつての夢や情熱を失ってしまったと考えられる)エメラルドの中で眠っていた情熱を揺り起こしてくれたのが、リョーマという「ゾクゾクする」存在との出会いなのだろう。

しかしこの「カウンセリング」という言葉がリョーマVSエメラルドにおいて的確過ぎる……

リョーマ!」の劇中歌のポジション

以前の記事ではテニプリという作品におけるキャラソンの立場を、「原作のエピソードをキャラクター個別の視座で再解釈」する立ち位置」であり、「同じ時点のことであっても様々なキャラの異なる視点・文脈が重なり合うことで、物語全体が縦横に広がり、作中世界全体がさらに深まる」もの、「ただ本編の展開と同期したキャラソンが生まれるだけではなく、その作中世界に生きている血の通った人間としての感情が滲み出ている」と解釈した。しかし、今作で歌われる劇中歌にはそれ以外の役割も存在したのではないだろうか。

今作の感想(主にテニプリ初見・出戻り勢からのもの)で、「テニミュっぽい」という意見を目にした。たしかに劇中では何度も歌って踊るシーンが出てくるのでそうとも取れるのだ。ミュージカル有識者(これはオタク話法としての「有識者」です)からは「ラ・ラ・ランド」のオマージュなのではないかと指摘されているシーンもある。しかし許斐先生の口からは「ミュージカル映画として作ってはいない」という発言もある。これはどういうことなのだろうかと自分なりに考えてみた。

許斐先生の考える劇中歌としてのキャラソンは、「シンプルな感情の爆発」なのではないか、と思うのである。

Golden age 350「プロには出来ない」にて、予想だにしなかった、許斐先生が作詞を手掛ける平等院の新曲「Death Parade ~どちらかを選べ!!~」の歌詞がコマに載せる形で公表された。プロには出来ないやり方として文字通り自らの命を賭し、そのことで日本代表の他のメンバーを鼓舞する平等院の気持ちが率直に描かれている歌詞だ。ほか、「新テニ」では手塚VS幸村戦のクライマックス、Golden age 306「手塚国光」で既存のキャラソン「Decide」の歌詞が使用されている。

たしかにこうした歌に感情を乗せたり、状況説明させたりして物語を進める手法は、「テニミュ」という文脈を無視してもミュージカル的でもある。しかしそれだけではなく、前述の「ただ本編の展開と同期したキャラソンが生まれるだけではなく、その作中世界に生きている血の通った人間としての感情が滲み出ている」要素も持っていると感じた。たとえば、「peace of mind~星の歌を聴きながら~」では、「リョーマ!」劇中でほぼ言葉での明確な説明がなかった*4桜乃の心情が、原作*5のエピソードを彷彿とさせる単語も交えながら明かされている。

よって、こうした原作の表現を踏まえて考えると、単にミュージカル的だからこのような表現を使ったというよりかは、「感情の爆発」を表現しようとした結果ミュージカル的になったのではないかと推察した。

「世界を敵に回しても」

さて、劇中歌の中でも特に注目すべきは、大団円として空からチームメイトやライバルが召喚される中で歌い、踊り、親子試合を繰り広げる「世界を敵に回しても」だろう。この曲には「リョーマ!」の肝となる要素が凝縮されているうえに、テニプリという作品が背負う縦横の文脈を端的に表すポイントが散りばめられているのだ。

まず、「リョーマ!」本編でもテーマになっていた越前リョーマと越前南次郎の親子関係。純粋にテニスを楽しむ強者・南次郎と彼に憧れ背中を追い続けるリョーマの関係は、「新テニ」も佳境を迎え、南次郎がU-17W杯会場であるメルボルンに降り立った今再確認される価値が十二分にあると考える。

続いて、公開直後から話題をかっさらっていった、手塚や跡部様たちを差し置いて柳生が持って行ったこの曲で(リョーマ・南次郎以外が歌うパートとしては)もっとも長いパート。原作でも柳生とリョーマが直接言葉を交わしたことはないため、一時期Twitterのサジェストでも「柳生 リョーマ 親友」や「柳生 リョーマの何」が盛り上がっていたことは今でも記憶に新しい。この部分の選抜理由に関しては、許斐先生からは「新テニ」34巻末インタビューにて「漫画を描いていると台詞を考えるより先にキャラが先に喋っている声が聞こえることがあります。」ということを理由としていたが、この部分に関しては、アニメで柳生のCVを担当する津田英佑さんのずば抜けた歌唱力によるものも大きいと思う。こうしたメタな要素は、テニミュ1stシーズンで佐伯虎次郎を演じた伊礼彼方さんが「無駄に男前」と言われたことが原作の佐伯にも逆輸入されたことなどの前例がある。こうした各種メディアミックス展開を緩やかに、でも確実につなげる要素がこの曲に含まれている事が興味深く感じた。

そして最後に、大サビの

世界を敵に回しても 譲れないものがある

素敵な仲間と 愛すべき人達

そして俺の心の中にある自尊心(プライド)

あなたが教えた宝物

 

というフレーズに注目したい。このフレーズは、「君と僕」⇔「世界の危機」を二極化し、どちらかを選ぶよう迫られる状況になる、いわゆる「セカイ系」とは似て非なるものであると考えた。テニプリ世界において「君と僕」のきわめて小さく個人的な関係と、「世界の危機と僕」という抽象的で大きすぎる関係は決して切り離せるものではなく、繋がっており、「君と僕」を大切にしてこそ、「世界の危機と僕」に立ち向かえるとも読めるし、あるいは映画本編の出来事を踏まえると、傍から見ると「君と僕」規模の出来事が、ある一点から見ると「世界の危機と僕」レベルの大きな出来事になり得る、とも読める。

こうした流れは、シンプルでわかりやすい王道のストーリーライン、カタルシスに乗っかりながらも、随所随所で「反王道」を感じさせるテニプリ本編ともリンクすると感じた。すなわち、「新生劇場版」でありながら、テニプリの真正性をこれでもかと詰め込んでいたのだ。

王道と反王道をしなやかに両立してくれるからこそ、私はこの作品が大好きなのだと再確認できた瞬間でもある。

原作者が一番マーケティング上手なコンテンツことテニプリ

先述の通り、冒頭は単なる「これまでのあらすじ」にせずドラマチックなリョーマVS幸村戦の再構成で鮮やかなエンタメ体験を刻み、最後は「新テニ」の合宿にしれっと接続し続きを示唆する。そうして「新テニに続く」エンドかと思いきや本編の画像をこれでもかと有効活用した公式MADこと「シアター☆テニフェスpetit!」につながる。1本の映画を見ているはずなのに、1幕がストーリー有の演劇、2幕がショーの舞台を見たような感覚になれるのだ。原作を読みふけった諸賢にとっては様々な思い出が噴出する瞬間だっただろう。そして原作未読勢にとっては本編以上の「なんだこれ!?」の嵐だったに違いない。しかし「気になる」「読みたい」という感情を掻き立てたのも事実だろう。

今まで自分が感じた中で、テニプリの外野からの印象は「無印:有名なタイトルだけど古いのでよくわからない、懐かしい 新テニ:なんかちょくちょくネットで話題になってる面白いコマがある」が多かったように思える。さらに巻数の多さ、各種メディアミックス展開というこのジャンルの縦横の広さが布教のネックにもなっていたはずなのに、Twitterを見てみると原作を一気読みしてハマった他ジャンルのオタクや出戻りオタクがなんと多いこと……!これはもう許斐先生がどんなオタクのダイマよりも効くマーケティングを展開してくれたのだろうと思っている。

リョーマ!の物語が原作や各種メディアミックスと少し違う時間軸で起こったパラレルワールドの出来事なのか、それとも原作と地続きなのかは今はまだはっきりしていない。しかし、仮に後者だった場合「タイムスリップで過去の世界にやってきたリョーマを南次郎は自分の息子と認識していたのか」が今後の展開で明かされるとするならば、「原作を読んでもらい、盛り上げるためにメディアミックスにも力を注いでいる」という許斐先生の言葉にも一層説得力があるように感じるのだ。

 

おわりに

リョーマ!を見て、改めてテニプリというコンテンツが持っている22年の潮流を感じた。今でも形を変えて色々な世代から愛される理由は、王道と反王道、トンデモ展開とシリアスさなど相反する要素を軽やかに両立させる「テニプリらしさ」や、90年代末期~ゼロ年代半ばのノリ*6を冷凍保存しつつ、ストーリー、キャラクターなど多方面*7で今にフィットするように変容し続け、そのあり方でまた相反する要素の両立を実現してみせるコンテンツだからなのではないか、と思う。

 

リョーマ!」、既にU-NEXT*8では配信始まってるうえに、2022年も応援上映会を開催するみたいなので何卒!!

*1:現実のテニスの公式大会ルールで禁じられていることは、テニプリ世界でもできないことになっている

*2:そういう意味で、「Decide」は正史、もう一つの「Glory」はファンサービスの色が強いとみている

*3:まあこの作品は起承転転転結みたいな畳みかけ方をしてくるが

*4:この辺は原作を読みこんでいる人向けの省略描写だったように思える。未見の人にヒロインとしての竜崎桜乃がどう映ったのか聞いてみたい

*5:該当シーンは「新テニ」での出来事なのである意味将来を予見するような匂いもある

*6:南次郎周辺の描写とか、大人が干渉しないことによる子供・若者による勢い・青臭さの熱量がもたらす作品全体の空気感

*7:テニプリはこの時代生まれの作品にしてはかなりキャラクター描写にダイバーシティを感じる。許斐先生が意識しているのかはさておき

*8:なぜかテニプリはU-NEXTと癒着しがち。この映画の配給のGAGAUSENの子会社だからそれ繋がり??