「GARO -VERSUS ROAD-」がとうとう最終回を迎えてしまいました。
もともと牙狼シリーズを追いかけていたわけではなく、勇翔くんが出演していたことを機に視聴することを決めたのですが、(自粛期間で大きな楽しみが減ってしまった中)毎週楽しみにしていた数少ないコンテンツでもあります。以前も別の記事で書いたのですが、こうして一つの好きなジャンルからどんどん自分の興味、関心が拡がっていくのは楽しいですね。
ひとまず、激しいアクションもあり難しい役どころでもある天羽を演じた勇翔くんにいちファンとして拍手を送りたいです。お疲れさまでした!
その他のキャストの皆さん、スタッフの皆さんもお疲れさまでした!
それぞれの「生き方」を問う
この作中において、主要キャラはみんな「自分だけの生き方」を求め、悩み、闘っていたように感じる。
たとえば、主人公・空遠は物語開始時点で既に「誰かを守るため」の行動が多く、争いを好まないお人好しな姿はまるで模範的なヒーローのようであった。しかし、物語中盤で「守るべき、守りたい対象」であった幼馴染の星合を失うことで、本当にこの生き方が正しいのかを自問自答し苦しむ。
天羽は、ライバルであり相棒でもある奏風と闘争し、ぶつかり合うことで互いの存在価値を確認していたように思える。その気になれば裏社会の人間とも戦うその姿は、自分の力を証明することが生き方であると信じているようだった。
貴音は、過去の多くのトラウマから形成された、猟奇的ですらある本当の自分を封じ込める。そして、「香月貴音」として人から愛され、尊敬されるようなペルソナを深く被って生きようとする。
南雲は、もともと水瓶たちに言われるがまま動画を投稿し人気者になっていったが、次第に、「自分の力だけで人気、名声を勝ち取りたい」と思うようになっていく。そしてその思いは、水瓶が南雲の目の前から消えて以降加速していく。
日向は指名手配犯であるが逃走し、連日ニュースになるがそんなことはお構いなしだった。誰の支配も受けず自由に暴れ回ることのできる環境を求めていたのかもしれない。
この中で誰の生き方が一番「正しい」のか、決めることは可能だろうか。
確かに、日向は犯罪の疑いもあるし、貴音も人を殺めた過去がある。しかし、「誰の支配も受けずに生きていきたい」「人に愛され尊敬されるためにペルソナを被る」こうした生き方を通して彼らを見たとき、すぐに真っ向から「正しくない」と言い切れるだろうか。私はすぐには決められない。
しかし、彼らは生きるための選択肢を選び続ける事、すなわち自分自身の尊厳を最後まで絶対に放棄しなかった。私は、その「生き方を選ぶ」ことに、この作品が最も伝えたかったテーマがあると考えている。
私たちは様々な「生き方」を選んで生きていくことができる。しかし、一度決めたそれが一生続くものとは限らない。空遠のように、何かのきっかけで本当に正しいのか?と迷うこともあるだろう。しかし、無限にある選択肢の中から自分が「正しい」と思ったことを選び続けていくことに、大きな価値があるのではないだろうかと気づかされた。
第11話、決勝戦が始まる直前、それまで決められた言葉しか発してこなかった朱伽が、まるで空遠たちに感化されたかのように、「生きるために戦え」と口にする。
それは空遠たちへのメッセージであるだけではなく、この戦いを目撃している私たち視聴者にも向けられた言葉ではないだろうか。そう感じている。
空遠世那と天羽涼介
この作品について触れるうえで避けて通れないのは、やはりこの二人の関係性だと思う。思想の上でも実際のバトルとしても、最後の最後まで相反し闘い続けた二人なのだから。
先ほども言及したが、空遠は誰かを守るために自分の力を行使するものの、争いを好まない性格で悪く言えばお人好しだった。これに対して天羽は、目の前にいる相手がヤクザだろうがホラーだろうが果敢に戦い、そうすることによって自らの力を証明しているようだった。
また、空遠には星合、天羽には奏風という信用できる親友がいたが、それぞれの向き合い方も、前者は「守るべき存在で、傷つけたくない」という気持ちが強く、後者は「戦いあってはじめて互いの価値を分かり合える」という気持ちが強く表れていた。
三回戦で星合が自死を選んだ後に悲しみに暮れ、自分自身のあり方を見失いそうになった一方で、四回戦でアンデッドと化した奏風に対して、本気の闘争ができることを「俺たちの戦いをしよう」と喜びながらも「どんなに親友でも、互いの葬式には出られない」と自らの手で葬ったところにも、そうした価値観の違いが表出しているだろう。
しかしこの二人はただ正反対の考えを持っているわけではない。互いの素性を理解していくうちに、関係も変わっていく。
四回戦にて、ほかの参加者が生き残るためにバトルを繰り広げる中、それをただ眺めたたずんでいるだけの空遠。その前の三回戦で星合を失い、ずっと今までの自分のあり方が正しかったのかを自問している最中に、天羽は戦うことを促し叱咤激励する。
ここはもう、戦うべき敵であるとかそういった形式的なものを超えているわけで、これができる関係性に熱い思いが湧き上がるのだ。
そして、天羽にとっては目の前の現実に真摯に向き合うことが「生きる事」であり、そのための手段が闘争だったのではないだろうか。したがって、それを放棄しようとしていた空遠は彼にとって生きる意味がないかのようにも思えたのだろう。
そして11話。決勝戦で最後に空遠と天羽が生き残り、天羽は「最後の相手がお前でよかった」と空遠に言う。決して友達ではないが、互いの戦いの実力を認め合い、「大切な親友を失った」という共通項から誰より深い部分で理解し合うことができていたからこそ、出てきた言葉なのではないだろうか。
こうした関係性は、最近だと特撮でこそ味わえるものになってきているのではないだろうか。*1
最後に選んだ道
第8話、四回戦にてアンデッド化した日向にとどめを刺すために空遠が魔剣を使おうとすると、剣は黒いまがまがしいオーラではなく黄金の光を放った。間違いなく、彼にガロ*2の素質があることの証明である。それに対してこのデスゲームを生み出した張本人である葉霧とアザミは驚いた様子だったが、空遠はこう言い放つ。
「望む力も、ヒーローも、牙狼の称号もいらない!」と。
私はこのシーンを見たとき、これは既存のシリーズや特撮の「お約束」へのアンチテーゼなのだと感じた。
しかし最終話を見て、この展開にはそれだけではない意図があったのだと気づいた。
最終話。天羽の死によって湧き上がる空遠の怒りから生まれた陰我で、とうとう葉霧とアザミが作ろうとしていた鎧・「ベイル」が完成してしまう。葉霧はこのベイルを使って最強の存在になろうとするが、「ガロなんていない」と真っ向から否定する空遠のもとに、ガロの剣が空から降ってくるのだ。
その剣を引き抜き一度はガロ=牙狼として戦い、葉霧を破り「自分の正義を振りかざし、守ったのは自分だけ」と言うものの、空遠は誰も殺さない、牙狼として、みんなを守るヒーローとしてではなく、死んでいった人々の想いを背負いながら自分の人生を生きるという。
現実世界へと帰還した空遠は、剣に背を向けて、たった一人で雪山を下山していく。新雪を踏みしめて歩くその姿は、誰かに与えられたものではない自分の人生を生きていく彼のこれからのメタファーのようにも思えた。
このシーンを、ひいては「GARO -VERSUS ROAD-」という作品そのものを、既存のシリーズや特撮の「お約束」へのアンチテーゼだと簡単に括りたくはなかった。
結びに変えて
「GARO -VERSUS ROAD-」を製作するにあたって、製作側でも色々な思惑があったのだと思います。この作品自体に関しても私のように「行間を読む面白さがある」と感じた人や、「肝心なところを詰めない粗い*3作品」と感じた人もいるでしょう。*4
しかし、「生き方」への問いという作品の大きなテーマにおいて、目を見張るものがあると感じました。奇しくもこのご時世に放送されたということを考慮しても、作品自体のテーマ性が鋭いと感じました。そして、それを「特撮ヒーローもの」「牙狼シリーズ」というある種の制約、ボーダーラインをある程度守りつつ乗り越えようとしている描写で切り込むことにとても驚きました。
「お約束」を超えた先で、こうしたコンテンツが生まれていく面白さを、これからも味わえて行けたらと願うばかりです。