新緑ノスタルジア

生きていくのがVERY楽しい

読んだ本(6~7月)

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4月

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5月

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ジャンル雑多、ネタバレ配慮ゼロ、読んだ順

6月

堀あきこ、守如子編著「BLの教科書」

少年愛(JUNE系)〜アニパロ〜やおい〜BLと繋がるコンテンツそのものの歴史、ファンコミュニティ、BLが向き合う「女性の性的欲望」「現実の異性愛規範とのズレ」「ゲイの実態との遠近」のようなジェンダーセクシュアリティなど包括的にBLを色々な視点から研究する手がかりを与えてくれる。「現実の異性愛規範、与えられたダブルスタンダードへの違和感の表明、抵抗」と「異性愛規範、ダブルスタンダードの内面化」の両方がBL愛好家の女性に見られるっていうのはタイムラインのオタクたち見てるとなんとなく思うし自分にも当てはまるところがあるなと感じた。BL愛好側は大抵、ゲイをある種の記号やファンタジーとして扱ってることに自覚的だけどそこにホモフォビア異性愛規範が無邪気に持ち込まれてしまうと怖いよな。いまだにBLのことホモ、男女CPをNLって呼ぶ人いるし。「男が好きなんじゃないお前が好きなんだ!」とかBLや百合のことを「性別を超えた愛」って指すのとかも危ういなと思う。最近気になってる「クィアリーディング」と「BL読み」「百合読み」はまったく同じものではないが強い関係があるっているのは面白い。

紹介されてたBL短歌同人誌「共有結晶」今見たらもうオンライン頒布やってないらしく泣いた。

BLと百合、定義の上で百合の性描写の緩さにも触れられてるけどそれも男女間の性規範のダブルスタンダードによるものって考えは目から鱗

アイドルのいわゆるBL営業やnmmnにも触れられていて面白かったんだけど、それを論じるならクィアベイティングに関しても触れてほしかった。「BLはゲイ差別か?」っていう一連の論争に関してもゲイ側の否定派・肯定派、BL作家側の「ゲイによるBL批判」への応答などかなり丁寧に触れてくれてたので。ところで百合作家とレズビアン当事者の間では「百合はレズビアン差別か?」ってのは議論のテーマになってるんだろうか?

 

安壇美緒『金木犀とメテオラ』

それぞれ家庭環境でトラブルを抱える二人の少女が出会い、よく知らないまま嫉妬、苛立ちを覚えるのは中高生だからこそだなと思う。中高生のうちにこの本に出会いたかった。ふたりの家庭問題が根本的に解決する描写はないんだけど、「辛いのは自分だけじゃない」「奇跡は起こりうる」って落としどころってことでいいのかな

これは「君だけじゃないさ…friends」話(バナ)ですね。ちなみに表紙イラストは志村貴子先生らしい。

 

ジュディス・レヴィン著、元村まゆ訳『ソーダと炭酸水の歴史』

アメリカのソーダファウンテン(いろいろな炭酸水やシロップを出せる機械のある店)がいまのスタバのように人々が自発的に集まって珍しい飲み物を楽しむ空間だったところが面白かった。

薬として作られる一方で「カロリーだけで栄養が何もない」「砂糖は危険」と不健康の象徴としても語られる両義性と、生活者はそのどちらか極端な考えってことは滅多にないって話にも触れていた。炭酸の泡を作るのに必要な薬品を数mg単位で調合できるのが化学者や薬剤師だったから薬と結びついて行ったのは知らなかった。ギリ詐欺じゃない誇大広告とかマーケティング戦略とかは今もほとんど変わってないのが面白い。今も機能性飲料の炭酸飲料多いもんな……0カロリーのダイエットコークなのに太る謎。

現代日本では10年に1回ぐらいのスパンで現れては消える炭酸コーヒーだけど初期は「故郷の味を思い出したい」理由でエスプレッソソーダとか作られてたの、何でもありだな。他にもチョコシロップや卵入り(ミルクセーキっぽい?)もあまり美味しさが想像できない。日本では他のどこの国よりも多く期間限定と称して色々な独自のフレーバーの炭酸飲料を出すらしく、当たり前だと思ってたけど特殊だったんだ……でもベーコン味とか出す向こうの感性と探究心は納得いかない……。

コーラがアメリカの象徴、資本主義の象徴なのはわかってたけど公民権運動の頃も黒人の運動家に「いや俺らアメリカ人ですが何か??」のアピール材料として使われてたのは知らなかった。価格も安いし買う頻度も高い分普段アイデンティティや政治に関わるものとして認識してないけど、お金を払う、物やサービスを使う行為はアイデンティティと切り離せないことがよくわかる。

今クラフトコーラが流行ってるのも「オーセンティック」「健康」志向とかいろんな視点で語れそう。

 

マーシャ・ライス著/柴田譲治訳『リンゴの文化誌』

エデンの園の禁断の果実はリンゴじゃなかった説が一番面白い。桃説、ザクロ説などいろいろある中でバナナ説が(聖書の舞台が暑い気候のパレスチナ周辺なことを加味しても)かなり有力らしいけど、バナナだとなんかオーラがなくなるというか、そういう神秘的呪術的モチーフになると思えないんだよね。白雪姫のリンゴとかもそうだけどそこがリンゴの特殊性だと改めて思う。楽園追放は性欲(=堕落)の始まりとして解釈されがちだけど「採取・狩猟から農耕」という文明化の過程、労働をしなければいけない理由としても解釈できるんだな。

英語圏だとappleを使ったイディオムもめちゃくちゃ多い。「apple of my eyes」=目に入れても痛くない存在、「bad apple」=問題児、とか、まだまだありそうだけどさまざまな文脈に放り込まれているうえに「健康、美、倹約」の善、「堕落、善良な市民の中に潜む悪者」の悪両方の象徴で、昔から身近な果物だったことが言葉の使われ方からもわかる。

日本のリンゴだけでもたくさん品種があるから品種の多様性は十分確保されてるもんだと思ってたけど18〜19世紀と比べると市場経済向きの大量生産ができて保存が効く品種に限定される形でかなり淘汰されてて、その分遺伝子プールも縮小して種全体としては弱くなってるのね……その中で小規模な果樹園で土着の品種を育てる動きや街路樹に植えてある木の実を取って食べる活動が出てきてるのはまだわかるんだけど、イギリスには放棄された土地に入ってリンゴを盗む活動があってその果物をレストランに売って学校運営の資金に充ててるところもあるみたいで、発想の勝利……。

アップルパイ食べたくなってきた、グラニースミス行かなきゃ……🍎🍏🍎🍏

 

100分で名著『フロム 愛するということ』

これは原典も読まないとダメですね!マゾヒズム的愛⇄サディズム的愛があってそれをそのまま政府と国民の関係に置き換えたのが全体主義ってのが面白い。個人間の愛をより能動的、生産的(してもらうことだけ考えない)にすることで社会全体が正しい愛に包まれるっていうのはたしかにそうなんだけどなんか恋愛だけを特別視するのはやっぱ馴染めない。孤独であったとしても孤立では生きられないのはもちろんフロムが主張してる通りなんだけど、家族や友達であってもあるいは名前がつけられない関係であってもそういう関係になれる可能性を信じていたい。自分が書く作品もその辺を意識していたい。

 

千早茜『さんかく』

愛し合うことと必要とされること、身体を満たすことと心を満たすことと生活を共にすること、混同してしまうけど別物だよね。あと高村と景子、華とともちゃんの会話で出てくる「尽くす女」の話も身に染みる。誰かのためって思ってても「自分のため」を捨てきれないと思ってるので。伊東と華がディスコミュニケーションからギクシャクしていく様がつらかったけど、伊東と一緒にいたのが高村(結局一人で前向きに生きていける力を掴む)なのが運がよかったんだろうね。ふたりはお互い見栄を張って勝手に嫉妬して、嘘偽りなく話して互いに知っていく時間が二人には足りなかった。

作中の料理が本当に美味しそう。パクチーと羊肉の餃子もいちごパフェも手巻きも食べたい!ナンプラー黒酢が普通に常備してある家庭。同じ食事を口にすることのあたたかさと、それ以外にもいろんなものを共有してるし、その分言えないことも増えていく高村と伊東の変化もよかった。

 

榎田ユウリ『武士とジェントルマン』

私にしては珍しく一切の前情報なしで表紙だけで手に取った一冊。「武家制度」がある日本、武士の家にお世話になることになった英国紳士・アンソニー……だけ書くとアンソニーが一方的に何か学ぶ話と思うけど全然そんなことはなくて、むしろ「武士」の伊能長左衛門隼人が周りから与えられたアイデンティティを自問して、もう一度自分の意思で掴み直す話だった。それを通してアンソニーも自分の「英国紳士」というアイデンティティを自問し直していく。あの二人には与えられたアイデンティティに戸惑い自問する時間ってのがあって正解だったんだと思う。周り、特に家族から与えられるアイデンティティは子供のうちは絶対のもので、それが本文で言うよう「呪い」のようなものであっても疑いようがない分大人になって立ち止まるだろうから。でも立場や肩書きが変わってもその人の本質的なところは変わらないよね。水を入れる器が変わっても水自体が変わるわけじゃないように。「武士」を一度やめて「やめるのをやめた」隼人もそうだしFtMをカミングアウトした誠さんもそう。男同士の(利害一致やギリギリの状況じゃない)ゆるやかな連帯にも触れてて良い。女同士の連帯(シスターフッド)が注目されるけどむしろ本当にこういう形のゆるやかだけど上辺だけじゃない連帯が必要なのは男同士だと思ってる。(女は世間から気づかれてないだけで、実際色んなところに連帯があると思ってるので)二人は年齢も民族も立場も違うけど友達になれたんだよな。それが嬉しい。

あと現代の武家制度を描くなら家父長制とか悪い意味での特権意識とかの問題は避けられないだろうな〜と思ってたけどちゃんと触れてて、矛盾をしなやかに乗り越えようとしてる今の世代が描かれててよかった。隼人たちがやってる人助け(詐欺被害を止めるとか災害前の声かけとか)さえ上の世代からは誰でもできるっていい目で見られてないのキッツいね……

金髪武士のヨリちゃんが途中からよっちんの声でしか再生されなくなった。それはもう平古場凛なんよ。

あと何となくこの人BLも書いてる?と思って調べたらドンピシャでした。スタンド使いスタンド使いに引かれ合う‼️‼️

 

王谷晶『完璧じゃない、あたしたち』

いや〜〜〜面白い。特に「小桜妙子をどう呼べばいい」「十本目の生娘」「だからその速度は」「シオンと話せば」「東京の二十三時にアンナは」が好き。軽やかな中にもドスッとパンチを食らわせてくる感じで本当に楽しい読書体験でした。いい街も悪い街もなくて今日は相性悪いな〜今日はいい感じの街だな〜ってなるよねわかる。インターネットでは一人称は完全に気分です。ここ最近は俺様がマイブーム。

 

ヴィクトリア・ディッケンソン著/富原まさ江訳『ベリーの文化誌』

のどかで牧歌的でかわいらしいイメージのベリーだけど今は機械化・産業化された大規模農業や栄養学と無関係ではいられないよね。それが進んだおかげでいつでも安全にベリーを育てて食べられるわけだし。むかし0655で見たクランベリーの収穫シーン(畑に水を張って機械で水をかき混ぜると空洞のある実が浮いてくる)を思い出した。機械化される前なんかは児童労働の問題とも密接に関わってたし、今も移民労働者の問題と関わっているので、ベリーの素朴なイメージを問い直す必要がある。なんかインスタで最近見るサジードリンクってあれの原料もオレンジ色のベリーなんですね。アサイービルベリーもそうだけどスーパーフードって言われるフルーツだいたいベリーだなと思ってたらちゃんと説明されててよかった。昔から万病に効くって言われてたらしい。子房が果実になる意味で「ベリー」を定義するとキウイはまだわかるけどバナナやオレンジも広い意味ではベリーらしい。うそやろ??分類がわからなさ過ぎる。

 

乙一『The Book jojo’s bizarre adventure 4th another day』

4部らしいサスペンス要素とそれでいてどこかカラッとした空気が楽しめたので安心。杜王町で何かの「きっかけ」を見つけるのは露伴先生か康一くんだと思うので始まりから納得。やっぱりザ・ハンドは本編だと持て余されてる感じがあったから億泰の経験が磨かれることでスタンドを使いこなすためのスキル(観察力とか)もブラッシュアップされててよかった。それとなんだかんだ康一くんと由花子さんもうまくいっているようで嬉しい。図書館デートだ!!!!公式CPには誰も文句を言う権利がありませんので^^メタなネタが多いのはある種「公認の二次創作」だからこそだよね。終わり方が全部円満にスカッと収まる感じじゃないけどまだ希望は残ってる、って感じは乙一先生の作風なのかな。オリジナル作品読んだことないからわからん。「野良犬イギー」は読んだのに……複数の人物の一人称視点がクロスしながら進んでいくので一通り読んだ後にもう一度最初から読み返したくなった。

 

大竹昭子『間取りと妄想』

間取り図って部屋の中や外観の写真以上に想像力を掻き立てられるのはなんででしょうね。情報が多過ぎないからかな。家にはその人の生活が詰まっていて、そこに他の人の人生がクロスしていって家自体に物質的に人の歩みが蓄積されていくから面白い。逆に家の構造が生活者の生活を決定づける側面もある。(「カウンターは偉大」「どちらのドアが先?」)「間取りと妄想」って言うから単に間取りから妄想したストーリーって意味かと思ってたけど、間取りの中の生活者があれこれ妄想する話や、妄想の中の間取りの話もあって二重三重と楽しめた!「ふたごの家」が一番好き。家は生活・人生の基盤だけどそこだけで人格が形成されるわけじゃない。

 

彩瀬まる『眠れない夜は体を脱いで』

自分の身体から離れるってことは自分が普段社会の中で置かれている役割とか「らしさ」とかからも切り離されるってことだよね。でも身体があっても(むしろあるからこそ)アイデンティティを獲得できるし、一度獲得したものでも自由に更新していっていい広がりも保証してくれる(それが周囲から期待されていたものでなくてもいい)世界があった。でもだからこそ人は不安になる。世間の「らしさ」に馴染んで不安を忘れて過ごしたほうがいいんじゃないかと思う時もある。そういう意味では「あざが薄れるころ」が特に好き。ネット掲示板SNSみたいな匿名の環境に自撮りとか手の写真とかが上がるだけでもああこの人たちにも自我があって生活があるんだなと思えるよね。それを明かさないことは自我を埋没するって選択でもあるし。

読んだ後自分がもし男で生まれてたらどんな人生だっただろうかと空想させてくれる本だった。

 

藤野恵美ショコラティエ

3人の少年少女が大人になってそれぞれの夢を見つけるまでの話。大きな挫折も理想と現実の葛藤も敵わない存在への嫉妬も全部無駄じゃないし過去からの積み重ねが全部集まって今があると思わせてくれる。続きが欲しくなる終わり方過ぎてpixivだったら続きをお恵み下さいタグついてる。

ガトーバスク食べた事ないから食べたくなりました。

 

7月

辻村深月『オーダーメイド殺人クラブ』

やっぱこういう屈折した学生の話はいくらでも読めるけど、後になっても当時のことは消えない悲喜交々の記憶として残り続けるってところを描いたところがほかにない誠実さだと思う。ちゃんとそこを描写してくれてるおかげで、冒頭の「『これは、悲劇の記憶である。』」ってフレーズが最後まで読むと二重三重の意味として作動する。スクールカースト上位と下位の間にある羨望と軽蔑が入り混じった視線、ちょっとしたことでこの世の終わりかのように感じる思春期の人間関係の脆さ、コンテンツ化される「少女」像に憧れと拒絶が入り混じる少女、「私自身」を取り戻しに行く過程……読みたいものが詰まっていた。文庫版解説のオーケンさんはある種のラブコメとして解釈したみたいだけど私的にはラブ「ではない」コメディかな……。あと人数少ない小学校はカースト意識も薄いし男女の壁も低いけど人数多めの小学校は既にカースト意識強くて浮いてる子目立つ子はすぐ疎外されるし、男女の壁が作られるのも早い。そういう二つの小学校が中学で合流すると後者の文化がすぐ前者出身の子にも染み付いてくるってのは思い当たるところがありすぎて……辻村先生も経験者だったのかとすら思ってしまう。あと読んでて「family name」「DON’T TRUST TEENAGER」が脳裏をよぎった。あれは思春期を通り過ぎた世代が歌うからこその訴求力もある曲だけど。執筆時点で大森靖子が活動してたら絶対アンは大森靖子好きなんだろうなー。でも「絶対彼女」の「絶対女の子がいいな」にほんとに??って思っててほしいー。

 

長谷川眞里子×山岸俊男対談『きずなと思いやりが日本をダメにする』

社会科学と自然科学(特に脳科学)の領域が年々近づいてきてるのはわかってたけどこんなにがっつり進化学や脳科学のことをちゃんと語ってくれる本と出会ったのは初めてで脳汁がドバドバ出た。チンパンジーは絶望しない。いじめは子供たちが社会的な生き物になっていく過程で生じる成長痛みたいなものなので完全に精神論でどうにか根絶するのは無理で、起こってしまったらそこでいじめる側に厳罰を与えるぐらいしか合理的な解決策はない(ひとりひとりが家庭教師をつけて個人で勉強する、一から十まで児童・生徒を先生が監視するなどもアイデアだが現実的ではない)のはごもっともだと思った。あの手この手で「お説教」、精神論では現代を取り巻く課題はどうにもならないという意識が欠落していることを説いてて、それに代わるものとして制度の正しい制定や言行一致の一貫した精神性を持つこと(自分の意思で物事を決定できる、それでいて他人との協調性もある)が挙げられているけど、結局どっかで精神論は必要になってくる気がするんだよな……少なくとも日本においてはそれを捨てきれない感じはある。

あと多様性や個性の大事さを主張しながら「みんな仲良く」という矛盾についてはべきべきの「共感より共存だ」が答えですよ。

図書館で借りて読んだけどこれは買って保管しておきたいわ……

 

村田沙耶香『しろいろの街の、その骨の体温の』

青春の、思春期のこういうところが嫌いだったってなる一冊。傷ついても痛いって言えないし血が流れたところを見ることも許されない空間だったんだな。小学校の幼馴染が中学に上がってカーストに引き裂かれる様は辻村深月「オーダーメイド殺人クラブ」でも描かれてたけど主人公が上位グループと下位グループで目に見えて板挟みになってた分さらにキツかった。これだけ人を抉ってくる描写も傷つけたろ!と思って描いてるんじゃなくて書こうと思ったテーマに近づいた結果そうなってるってのが村田沙耶香作品のいいところだね。価値観の格付けからは今も逃げられないように思う。結佳みたいに自分で気付けるのだろうか。自分を愛するってキラキラした言葉のように見えるけど死ぬほど悩んで傷ついてその結果出た答えって場合もあるよね。

 

松浦理英子『奇貨』

本田にも七島にも、二人の関係にも架空のキャラと思えないぐらい親近感が湧く。二人が淡々と、だけど切実さを持って話すから響くんだろうな。序盤も序盤のお互いの嫌な奴について話してる場面であっこれはいい読書体験になるなと確信した。「男同士の友情に憧れる女」は割と見かける話だけど「女同士の友情に憧れる男」は新鮮だった。