新緑ノスタルジア

生きていくのがVERY楽しい

読んだ本(5月)

1~3月

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4月

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ジャンル混在、ネタバレ配慮ゼロ、読んだ順です

 

朝井リョウ『スター』

「作品の内容より作り手の状態を見てしまう」ところ、非常に耳が痛い……今正解とされていることが過去・未来で正解になる可能性があるのか?ってところを見て、それを踏まえた上で自分がいいと思えるか思えないかってことなのかな

本来比べられないものを同じ土俵に上げて比べ続けてしまうこと、自分の本質的な所から目を逸らしたくて何かに騙されていたいと思う人……オンラインサロンの胡散臭さというか物事の本質を棚に上げようとしてる感じは何なんだろうな。「そもそも欲求には大も小も上下もなくて、いろんな種類があるだけなんだよね」。「本物」って何なのか、現代に誰もが認める「本物」が生まれる可能性があるのか……。

なんかこう、「本物」を作り出せる可能性があるとするなら、認められない他人の糾弾に走るより(他人にスケールを広げるより)要みたくただただ自分一人と向き合うか、あるいはもっと地球規模の馬鹿でかいスケール(BIG LOVE)で物事を捉えるかしかないんじゃないんですかね。

「越境しますよね、素晴らしいものは」(大)アンジュルムもどこかに越境して届くのかな。堂島孝平さんの時みたいに。

はーちんや紗友希がYouTuberになった時に非難も多かったことも思い出した。アイドル(ハロメン)とYouTuberの価値って比べられるのかな。

 

深海菊絵『ポリアモリー 複数の愛を生きる』

ポリアモリー性的嗜好というより社会的実践の色が強いことがわかった。相手を「自分の所有物」として扱わない原則は愛する対象が一人でも複数人でも心がけるべきことだと痛感する。第一〜第三パートナーの区分など合理的な考えが多く、自由を実践するために合理的なマナーやルールで自分や相手に配慮することも大事だと感じた。

1 意思決定は全員合意のうえで

2 正直であれ

3 相手を思いやる

4 本気で関わる

5 誠実であれ

6 個性を尊重する

ごもっともである……けど忘れがちなこと。

SMプレイだけじゃなくて日常生活でも主従関係を築く関係についても触れてたけど、

「互いに信頼してるからこそ主従関係を結べるし、相手のアドバイスや金銭管理を受け入れられる」「自分にはエマの幸せに対する責任がある」あたりでもしかして……自カプ!?!?!?って悪いオタクが脳内で叫び出した。グループリビングはポリアモリー実践の有無関係なく今後日本で広がりそうな気がするけどな〜。正直今の日本で父母だけで子供を育てることに限界がきてるような感じがするし。

 

辻村深月『水底フェスタ』

閉鎖的な地方都市で悶々とする中高生は最高‼️‼️

大人になりきれない、擦れてて村の閉鎖的な価値観が嫌いなのに変なところで素直だし大事なものを捨てきれない少年がどんどん何が真実かわからない村と一人の女に吸い込まれていく姿に水底を見た。冒頭や中盤で挟まれるフェスの非現実感がそら恐ろしくも思える。恋愛や性に免疫がないほど狂気になりうるのかもしれない。あれだけ隠蔽体質の村の人間に苛立ってるのにどんどん隠し事が増えていくの、なんというか惨めというか見てられなくなってくるというか……

表向きは開発が進みフェスを受け入れ私鉄の駅ができる進歩的な村なのに村民の体質は保守的で閉鎖的なところが一層ゾッとさせた。

最後の最後まで緊張感が途切れるどころか村の真実、湧谷家、日馬家の真実が暴かれるたびに緊張感が増していき思わず一気読みしてしまった。あんな終わり方じゃ湖に達哉や由貴美以外にも何が沈められてるかわからんじゃんね。仮に逃げ出したとしても広海の性格上また同じように疑念を抱く機会があるかもしれんし、こんな環境に生まれ落ちた子供に「広海」って名付けることすら残酷に思えてきた。

 

森貴史『〈現場〉のアイドル文化論 大学教授、ハロプロアイドルに逢いにゆく。』(再)

まなかん卒業が発表された今この人はどういう気持ちなんだろうという気持ちで再読した。

ゼミ生と何回も連番してるから「大学教員がもつべきは優秀で世話好きなゼミ生なのだ。」って言ってるのとか、まなかん推しなのに宮本佳林さんに人生を破壊されそうになるオタクの有様とか面白すぎる。

昨日のさんじゅルム企画でも思ったんだけど、質問コーナーでサッと実りある話題を引き出せそうな質問を思いつくオタクになりたいよね。秀逸な質問としてやなみんやゆかにゃの卒業を控えたサンシャインでのリリイベでの朋子への質問、「池袋での思い出は?」が挙がってたけどこういうのってギリギリまでじっくり考えてるのかパッと思いつきで書いてるのか……

体調不良での活動休止→卒業とあまりスッキリしない形での卒業だったため「こじらせ」てしまったという著者。

ということは、逆にいうと、ぼくの「こじらせ」は、幸いにも活動再開した稲場さんが無事に(2回目の)卒業をむかえるのを見届けたときに、全快するということなのだろうか。

ということは今彼は「全快」に向かいつつあるんだろうか……。

ドラマ武道館と舞台タイムリピートを絶賛してる章があったけどタイムリピートは本当にいい舞台だよなあ。全員に見せ場がきっちりあるし、

「私たちは若い。私たちには未来がある」

「たしかに若い、だが自分の仕事に責任を持ってる!」

あたりはアイドル舞台で言うからこそ光るセリフ。

juiceヲタとしての活動記録をメインにしつつ元カントリーだったのでカントリーの話もちらほら出てくるんだけど、やなみんは幼さと大人びたところのアンバランスさを「商品」としてパッケージしてたわけだけどそこに限界が来たがゆえの卒業なのかもしれんなというのはいまだに思う。指摘されてる通り、もう表舞台に出てこない以上彼女が当時何を考えていたかは永遠の謎だけど……。あとこんな言い方するのはアレかもしれないけど今のわかなちゃん見てると、もしやなみんの兼任先がアンジュルムだったらどうなったんだろうと考えてしまう。

終章で自分がアイドルヲタクになって変わった事を振り返ってるけど、私がアンジュヲタになって変わったことって何だろう……。

あと後書きでスペシャルサンクスとして名前を出されてた関大ハロ研OBOGの二人ってフォロワーのフォロワーでは?

 

いとうせいこう『自己流園芸ベランダ派』

「鉢という時点ですでに、ベランダーは自然に反している。ベランダで植物を愛するという行為が、こうして自然に対抗することでもある事情は複雑だ。」とあるように、一番身近な自然でありながら鉢植えして人間の手をかけている点で「反自然」でもあるベランダの植物への眼差しが愛おしい。ゴーヤ、ヒョウタンなどツル植物への愛情と言うことを聞いてくれないペットに対するような苛立ちは小さい頃学校でへチマを育てていた頃を思い出した。

あとは、ちゃんと根付く前のミントの芽の介護の話は実際に育ててるからこそ出てくる話だよなあ。ミントはそこかしこに伸び放題になって鉢や庭中を占拠するイメージだから……

雑草はあえて抜かないでおく、観賞用に品種改良された植物が「先祖返り」してもそれはそれで愛でる、枯れてしまったり果物の実が鳥に食べられたりしても悲観せず、また新しい植物を試す……「ベランダー」の「試しては枯らし、枯らしては試す」生活は、反自然の鉢の中を可能な限り自然に近付ける営みなんだと思う。

「ベランダで起きるささいな現象は、世界や宇宙の変化とダイレクトにつながっているのである。」このフレーズを読んだら、鉢植えをひとつ買って「ベランダー」の仲間入りをしたくなった。

いとうせいこう柳生真吾「プランツ・ウォーク 東京道草ガイド」や村田あやこ「たのしい路上園芸観察」も読みたくなった。路上園芸は「ベランダーストリート派」として語られてたし。

 

星野智幸『植物忌』

「自己流園芸ベランダ派」とあわせて、植物は自由自在である意味動物よりコントロールが困難なのではと思わされる一冊。植物が意思を持って人間を侵略しようとする世界の「ひとがたそう」「始祖ダチュラ」を読むと、やっぱり人間は増えすぎたと思ってしまう。

ラストの「喋らん」の「意思疎通なんてさしてできていなくても、どうにかなるもんだ、と。むしろ、細かなところまで完全に了解しあおうとふると、行き違っていることがあからさまになって、許せないという気持ちが湧き起こってしまうわけだ、と知るのです。」のフレーズは、意思疎通に本当に言葉が必要なのか?と考えてしまう。植物が自然のいろいろな営みに反応したり人の手で品種改良されたりしてその姿を変えていくのを見ると遠い未来では本当に「泣けるススキ」「喋らん」が世に出てくるんじゃないかと感じる。

刹那的に華やぐ植物は美しいと「スキン・プランツ」で再確認。これからタトゥーしてる人やハゲてる人を見るとスキンプランツになるのかなーと思ってしまいそう。

全作に共通して出てくる植物屋の名前が「からしや」で、その由来は枯れることまで植物の営みとして枯れた草木も扱うから「枯らし屋」→からしやになったとのことで、そこもまた「自己流園芸ベランダ派」とつなげて考えてしまう。動物だと殊更にペットや競走馬は人間のエゴ!なんて言われるけど、植物だとそういうのあんまり聞かないもんな。

ちなみに、『自己流園芸ベランダ派』と『植物忌』は同じ日に読んだ。直接関係のない2冊だけど、続けて読んだことで相乗効果で旨味を楽しめたと思う。食べ物に食べ合わせがあるように本にも「読み合わせ」があるのではないだろうか。題材が似ていればなんでも「読み合わせ」が良くなるわけじゃないんだろうなというのは何となく感じてるので色々な「読み合わせ」を探求していきたい。

 

朝井リョウ『世にも奇妙な君物語』

世にも奇妙な物語が好きな作者とはいえなぜ小説という媒体でこれを発表したのか、ドラマの脚本に携わればいいのでは?という気持ちは最後まで読むと払拭される!第5話「脇役バトルロワイアル」が1-4話のキャスティングにつながっていたテイで進むところ、空気階段の単独的な面白さがある。どれも本家らしく唐突に得体の知れない人や概念が出てくるところ、それでいて現実社会を映し出し風刺する要素も含まれているところ、最後にどんでん返しがあるところがニヤリとできる。第2、3話はどんでん返しのあとにさらにもう一声仕掛けがあって更にゾッとできた。

あと作者あとがきで「世にも奇妙な」という言葉が(本来世の中は何の理由もなく唐突に起こる出来事も多いのに小説だと絶対理由が必要だが)無から何かを生やすのに便利って言われてて、そう言われるとジョジョの「奇妙な」冒険もかなりそうだなと思った。特に4部及び岸辺露伴は動かないシリーズにおいて(結局最後まで何なのかよくわかってない振り返ってはいけない小道とかガチの宇宙人なのかスタンド使いの人間なのか謎なミキタカとかね)。

 

いとうせいこう『存在しない小説』

そもそも存在しない小説とは?「存在しない作家」が書いた体で出した「存在しない小説」でも、この本はたしかにこの世に「存在している」のでは……?と思いながら読み進めていたのだが、読み進めるにつれて小説という媒体の(映像や音声が持たない)自由さに驚かされた!上も下も過去も未来もゴチャゴチャにされるような奇妙な体験は小説が得意な領域だということを再確認し、「存在しない小説」とは翻訳者、読者が「存在する小説」にふれることで初めて生まれ出るものだと感じた。小説の読み手は決して受動的ではなく、むしろ能動的に想像力を働かせる。それによって同じ文を読んでいても受け取り方が大きく異なったりするのが小説が持つ面白味だと確かめることができた。

「『存在しない小説』とは、読者に読まれることでその都度生まれ、しかし印刷されて残ることのない小説ではないか。

つまり、『存在しない作家』とは読者のことだ、と。(中略)

あらゆる作家は最初の読者として『存在しない小説』を絶えず排除する。排除しながら『存在する小説』のみを書き残す。」

またこの本には「作者」のいとうせいこう、「訳者」のいとうせいこう、「編者」のいとうせいこうが登場している。作家の「いとうせいこう」が書いた小説を「仮蜜柑三吉」なる訳者が訳し、編者の「いとうせいこう」が解説した結果、「私が書かなかった私小説」すら誕生した。はたしてそれら三者が同一人物か、あるいは私たちの知る「いとうせいこう」と同一であると言い切れるのだろうか?名前とは単なる識別のための記号に過ぎないはずなのに、同一性を期待してしまうのは何故だろう?そこもまたパラレルワールドに迷い込んだような不思議な体験だった。

内容としてはアメリカ、ペルー、マレーシア、日本、香港、クロアチアと世界のさまざまな地域を舞台とし、行ったことのないはずの地域でもありありと情景が浮かぶところに「訳者」の腕が光る。特にマレーシアに住む女子小学生とチャイナタウンの中国人のひとときの緊張感ある交流を少し背伸びした子供の視点で描く「あたし」が気に入った。

小説(文字媒体)の可能性はまだまだ開かれていると感じた一冊でした。

 

舞城王太郎『私はあなたの瞳の林檎』

誰にでもある”You are the apple of my eye”=「目に入れても痛くない」ほど愛おしい存在、時間の話。小6から中1の春休みの間だけの二人きりの時間と、それからのふたりを描く表題作、自分がやっていることは芸術なのかと思い悩む美大生と「オリジナルの芸術じゃないのにそうと思い込んで創作する」ことを「うんこサラダ」と呼ぶ才能ある同級生の出会いを描く「ほにゃららサラダ」、「この世の全てに客観的な価値や意味はないから生きていても死んでいても意味はない」と考える男子中学生と二人の女子クラスメイトが織りなす「僕が乗るべき遠くの列車」の3作通して、性の目覚めや気まぐれな女の子の心理、独占欲、自分にないものに憧れる気持ちを一人称視点で鮮やかに描いていた。特に「ほにゃららサラダ」は女子大生の一人称視点ということで本当にこちらに語りかけているかのようなテンポが心地良い。表紙の蛍光色のイメージにぴったり。

「自分の価値観を貫くか、他者に委ねるか」を問う場面が多いし、主人公の前に思わせぶりな態度で自分の価値を問いただす異性が登場したりと、全体的にちょっとセカイ系の匂いも漂う。

主人公が小学生時代の初恋を高校生になっても抱え続け、「それは本当の好きじゃない、相手なんて本当は誰でもよくて、後から特別感がついてくる」と否定される表題作、「自分の初恋を運命だと相手に認めてほしかった」女の子が登場する「僕が乗るべき遠くの列車」といい、初恋の特殊さを色々な視点から描いているのも良かった。

創作物なんて完全な無から生まれるオリジナルなんてないと思うし、言ってしまえばみんな「うんこサラダ」なんじゃないんですか??だから高槻がそうやって定義することにも価値はないと思う。

阿修羅ガール」も読まなきゃな〜。

 

王谷晶『ババヤガの夜』

ヤクザの世界に転がり込んだ暴力を生き甲斐にする女と、組長の娘の運命的でギラギラした出会い、連携、逃走!恋人にも義姉妹にも友達にも主人と従者にもならない二人だけれどそこには確かな連帯があることはわかる。

暴力でしか生きられない依子だけど暴力が蔓延っていても面子のためだけに動くヤクザの世界はさらに生きづらかった皮肉。

40年も一人の女の処女性に執着する宇多川なんて側から見れば馬鹿馬鹿しいことこの上ないんだけど、それもそいつからすれば愛(かつて愛だったもの)だって言うんだから恐ろしいよね。

柴崎政男と内樹由紀江も逃げた2人だけど、彼らも面子だけで動いたり道具扱いされたりする稼業に思うところがあったのだろうか?この2人のことは逃げた以上のことは明かされないけれどどうしてもそう思って依子と尚子にも重ね合わせてしまう。そういう風な叙述トリックが仕掛けられているからでもあるけど。この2人は今幸せだろうか?

尚子が男の格好をするようになったところに理由なんてなくて単にスカートや長髪はなんとなく性に合わないからだったけれど、その方がかえって一緒に生活していくには都合が良かった(姉弟や夫婦に見えるので)の、一連の逃走が依子と尚子を知る読者からすれば大事件だけど社会環境がガラリと変わるような規模の出来事じゃないことを思い知った。表向き型にはまった方が生きやすくて、そこにはまってさえいれば中身なんて他人は気にも留めないっていうのは痛い所突かれた。彼女らが自分自身の面従腹背さを自覚しているからこそ続けられた生活だと思う。

ヤクザの世界は女は当然ながら男も人格や権利なんて認められず組織の道具に過ぎないことを最後の柳のセリフが突きつけてくる。サバイブのために女性蔑視を内面化してしまった男も多分いるんだろう。柳はあれから故郷に帰って幸せに暮らせているだろうか。

在日コリアンへの差別、抑圧にも少し触れてるのでお?と思ったら作者は「小説版 韓国・フェミニズム・日本」にも寄稿してるのか……そっちも読むか……

 

梶尾真治『おもいでエマノン

「Dear Sister」のフェリーから海を臨む桃奈がそれっぽいと聞いて読んだ。40年以上昔の作品もあるのに全く古臭さを感じない、SFにはこういう傑作が多い。読み終わった後、エマノンはもしかしたら今もどこかで旅を続けてるかもしれないと感じる一冊だった。エマノンが出会った人のことを忘れないように、エマノンに出会った人もエマノンを忘れないんだろう。忘れたいことも忘れられないのは辛い人生なのかな。(作者も「忘れたいような辛いことが忘れられないというのが一番辛いんじゃないかと。」と言及してる)子供を産んだら記憶が引き継がれてもとの「エマノン」は完全に抜け殻みたいになるってのも、なかなか側から見ると辛い。「とまどいマクトゥーヴ」「たそがれコンタクト」「あしびきデイドリーム」にはエマノン以外にも特殊な人間が出てくるけど、その特性や能力自体に善悪はなくてただそれぞれの想いを抱えて生きているっていうのがこの作品のテイストだと思う。エマノンも何十億年もの記憶を保存してるけどあくまで人間としての一般的な感覚は失ってないし他の人間の悩みに寄り添う姿勢もあるし。「とまどいマクトゥーヴ」(1982)の神月は特殊能力ゆえに強い上昇志向とノブレスオブリージュ(に見せかけた支配思考、選民思想)を抱えていたわけだけどそういう所にちょっとDIOやカーズが脳裏をよぎった。今よりみんな上昇志向が強かった時代なんだよね。

 

大森靖子『超歌手』

まあ言いたいこと色々あるけどMetooじゃなくてInMyCaseだろってのは目からウロコでそれこそ「共感より共存だ」だし2017年時点で既に「DON’T TRUST TEENAGER」って言葉もその根っこの思想も既にあったんだって驚き。誰も他人の人生を生きられないし人それぞれの孤独があるからそこに気付くことから始めるのがこの国の現状なんですよね……あと人を傷つける人間の大半は無自覚だと思ってるから普段から自分の感覚発言行動をどれだけ自覚して実際に言葉行動にせずとも今おれはこんな感情だぞっていう面従腹背状態をどれだけ持てるかみたいなことも思う。愛が重いのは恥ずべきことではない。私が好きなアーティストは90年代〜00年代ポップス(特に女性)を敬愛してる率高いからちゃんと聴いときたいのよな。あの時代のアーティストがとにかく自由だったことはわかる。

人間はつねに均質じゃないし1秒先には全然違うこと考えてたりするの、インターネットに浸かってると忘れそうになるよね。

108の質問でこぶしファクトリーに曲提供したいって回答してるところがあってあーそれ見たかった、、ってなった。質問者もにっちやんやゆっきゅんやでか美ちゃんやシュガビンさんに吉田豪さんに知ってる人盛り沢山で嬉しい。「選挙前は天下一武道会の選手紹介みたいなノリの煽り番組つくってほしい。」それだ!!

 

岩下朋世『キャラがリアルになるとき』

「キャラ」と「キャラクター」の差異をさまざまな事例から論じる一冊。テニミュと原作の「成長」に対する向き合い方は、キャラクターと演者が二重写しになるテニミュだと「演者が『キャラ』になる過程を巻き込む」のでよりリョーマの青年期の成長物語としての側面が強調される(特に、ずっと小越さんがリョーマを演じ続けた2nd)が、原作だとリョーマの成長はテニスプレイヤーとしての成長の描写に徹し、終盤でその成長過程が(幸村との対峙で)相対化される、という比較のされ方がされてて面白かった。新テニも基本的には高校生→海外選手と新たなプレイヤーと出会ってそれまでの強さがどんどん相対化されていく過程の話なのでね……。幸村も幸村で「五感を奪われる」のはまさにそれまでの歩みが相対化されてると思うし。そこからどうやって自分のアイデンティティ(テニスのプレイスタイルとして描かれることが多い)を取り戻す、あるいは更新していくかの話、新テニは

2008年刊行の同人誌「テニスの王子様 爆笑・恐怖・激闘 完全記録」読みたすぎる。テニミュが新人キャストを集めて演じられる一方で3rdからの続投や2.5次元舞台、グランドミュージカルなどで十分経験を積んだキャストも入り混じり、さらにアニメ声優を起用することでメディア間の境界が更に曖昧になる新テニミュに関する分析も読んでみたいと思った。

電王の「イマジン」がもたらすキャラとキャラクターの多面性、これによりイマジンが主体で物語が作れることの独自性に関する分析も面白かった。

今後漫画読むときはキャラの表情やセリフだけではなく「視線」に注意して読んでみたいと思う。

 

梶尾真治『さすらいエマノン

自然に向き合う人間・文明。自然の恩恵を借りなければ生きていけないのに敬意を忘れて破壊してしまう愚かさを持つ人ばかりに見えるけど、自然を慈しみ大切にする人がいなくなったわけじゃないよね。そう思える。人間にはまだそういう可能性がある。こうした自然破壊とか人間の愚かさを描くのにSFは向いてるとは思ってたけど、それだけじゃなくて可能性も描いてるのがよかった。「いくたびザナハラード」にはメタフィクションの要素もあって驚いた。個人的には「いくたびザナハラード」で川をきれいにしてるおじいさんに感化されて子供たちも手伝うようになったところが希望の継承を感じですごく、よかったです。2020年代にもこんな可能性はまだ残っているだろうか?と思いを馳せた。

 

吉田修一『アンジュと頭獅王』

1000年経っても慈悲の尊さは変わらない。頭獅王が現代にきてからが特に面白い。100%現代と一致しているのではなく平安時代中心に他の時代も入り混じっているような世界が圧巻。文体も古典と現代文が入り混じり絶妙に声に出して読みたいリズムを作っていた。怨念を晴らすことと慈悲の両立、聖様の戒律と慈悲の葛藤で成り立つバランスも見もの。誓文のシーンは丸暗記して誦じたくなった。